報われないロスジェネ研究者たち





第4回(更新日:2019年1月16日)

副島明美・43歳

副島明美(43歳・仮名)は辛い人生を送っている。

「すでに幼稚園の年中のころには『何か違うな』と漠然と感じていたんです。ゆいちゃんとれなちゃんって言う仲の良い友達がいたんですけど、3人でいるとき、いつも私は周りの大人からはオマケ扱いされてたんです。幼稚園の男の子も、私にはあまりちょっかい出したり話しかけたりしなかったんですけど、ゆいちゃんやれなちゃんはいつも誰かに構ってもらってたんです。」

副島がその原因が自分の「容姿」にあるということを、小学校の4年生のときにはっきりと理解したと言う。

「小学校に上がったころから、クラスの乱暴な男の子たちにブスって悪口を言われるようになったんです。私は両親から『可愛い』と言われて育てられてきたので、なんでそんなことを言われるのかわからなかったんです。でも、すごくショックで母に泣きながら学校でブスって言われたことを伝えたんです。そのとき母は、『そんなことないよ、明美ちゃんは可愛いから男の子がいじめたくなったんだよ』って言ってくれたんです。」

しかし、悪ガキたちによる悪口は酷くなる一方だった。

「小学4年生になると、私はバイキン扱いされていました。ある日、それまで私のことを可愛いと言ってくれていた父が、深刻な顔をしてこう言ったんです。

『明美は私たちにとっては可愛い。天使のようだ。だが、世間一般から見ると違うだろう。この先、顔の良し悪ししか見ない人たちからは優しくされないかもしれない。とても悲しいことだとお父さんもお母さんも思っている。でも、明美のことを大事に思ってくれる人が現れるかもしれないし、そういう人と出会えるなら、明美も結婚ができると思う。だが、そうならないかもしれない。だから、そのときのために、これからは今まで以上に勉強を頑張って、お父さんとお母さんが死んだ後は、一人でも生きていけるように準備していこう。お父さんとお母さんはいつでも明美の味方だからね。』

悲しかったです。自分が可愛くなかったという事実よりも、父や母が私が可愛くないことで悲しんでいたと知って心が苦しかったんです。母はそのときは一言も言わず、ずっと静かに泣いていました。」

それから副島はひたすら勉強に取り組んだ。周りからのいじめは、いつしか無視という形に移行した。クラスのほとんどの女子も、自分たちがいじめの対象になることを恐れてか副島を避けていたようだ。

だが、副島にとって、勉強を邪魔されるようないじめでなかったことは幸いだった。休み時間も放課後も週末も長期の休みも、ひたすら勉強に専念できたからだ。その結果、副島は県内でも有数の進学校に進めた。

高校ではそれまでのようないじめはなかったものの、青春とは程遠い高校生活を送った。それでも副島は勉強を続けた。そして、地元国立大学の薬学部に現役合格を果たした。

「理系とは言え、薬学部は女子が多いんですよ。だから、私は相変わらずブサイクな人としての立ち位置を保っていて、ロマンス的なものからは一番遠いところにいました。明確ないじめはなかったんですけど、学内外の華々しいイベントとかには決して誘われなったです。ちょっと寂しいなと思うことはありましたけど、少なくとも大学の授業とかで邪険に扱われることはなかったので良かったです。学生実習なんかで同じ班になった人たちからも普通に話しかけてもらえたりしたんで、これまでの人生から比べると天国のようでした。」

副島は薬学部に入ったことで、将来は薬剤師として一人でも生きていける術を手にいれた。小学校からの人生の目標が達成された形になったのだ。しかし、その人生設計にはすぐに狂いが生じた。

今とは違い、副島が大学生だった当時、薬学部は4年制だった。そして、副島の出身大学は、国立大学ということもあり、薬剤師教育よりも基礎研究に力を入れていた。そのためか、卒業生の大半は、薬剤師として就職するよりも、大学院に進み研究者への道を選んでいた。副島も例外ではなかった。

副島は真面目だった。ブサイクで誰からも相手にされなかった自分にとって真面目に勉強を頑張るということが唯一の存在価値であったのだ、と当時を振り返って副島は語った。3年生のときに研究室に配属されてからも、副島は教授や先輩の指示にしたがって黙々と実験をこなした。ときに体力的にも辛い作業を言い渡されることもあったが、それは「いじめ」の一環ではなく、自分を研究プロジェクトのメンバーの一人として扱ってくれてのことだった。だから副島は、むしろ喜びと充実感を持って、素直に淡々と自分の責務を果たしたという。それに呼応して、教授をはじめとする研究室メンバーの副島への信頼も増していった。

そんな副島が修士課程のみならず博士課程へも進学することを決めたのも、ある意味では自然な流れだったのかもしれない。しかし、その選択がのちに副島を苦しめることになる。

博士課程1年生のときに、指導教官であった教授が体調を崩し、予定よりも早く退官した。翌年、新しい教授が別の大学から何人かのスタッフ・学生を引き連れて副島の研究室に着任した。誰もが「チャらい」感じで、セクハラまがいの冗談を言いあう人たちだった。研究室の雰囲気は変わった。副島は「容姿」をネタにからかわれるようになった。

研究方針も激変した。これまでの教授は一つ一つデータを精査し、それをもとに研究プロジェクトを慎重に進めていくタイプだった。しかし、新しい教授は目新しい内容に見境なくとびつき、多少怪しいデータでも論文としてすぐにまとめていった。研究室からの論文の量は激増した。だが副島は、その大半は再現性も取れない捏造まがいの論文だと、今でも思っている。

あるとき、研究室セミナーで、発表者(新しい教授が連れてきたスタップの一人)のデータの再現性について副島は疑問を呈した。副島にとって、人前で自分の意見を出すのは非常に勇気のいることだった。しかし、これまで培ってきた研究者としての良心が副島の背中を押した。

「そのとき、新しい教授は何て言ったと思いますか?『そんな細かいことを気にしているから恋人もできないんだよ。もっと気楽に研究を楽しもうよ。』って笑いながら言ったんです。でも目は憎悪に満ちていました。そして、その日を境に私への研究室内いじめが本格的に始まったんです。結局、1年半くらいは、研究室のメンバーのほとんどの人とはまともに会話できませんでした。私と仲良くすると、新しい教授とその人が連れてきた人たちから仲間はずれにされるんです。学生にとって教授に嫌われるというのは一大事ですからね。仕方ないとは思います。」

副島は1年半のいじめに耐え抜いて博士号の学位を取った。しかしそれは、新しい教授が世間体を気にしたからだと副島は言う。

「自分の研究室の学生が博士号を取れなかったと言われるのが嫌だったんでしょうね。学位はもらえましたけど、就職の面倒は全く見てもらえませんでした。」

研究職の就職は一般の就職とは少し違う。特に博士課程にいる学生の就職活動は、基本的には「教授の推薦状」がないと、どの会社も相手にしてくれない。「教授の推薦状」を使わなくても応募できる一般職への就職口も探したようなのだが、当時の大卒の就職難のあおりを受けてか、そちらも全くうまく行かなかった。履歴書に貼った写真を見て審査官が書類審査ではねたんでしょうね、と副島は悲しい笑顔で言う。そんな経緯もあり、副島は結局、会社への就職を諦めてアカデミアでの働き口を探し始めた。しかし、アカデミアでも「教授の推薦状」をもらえない人間は雇ってもらえないということに副島は気づく。

「八方塞がりでした。実は私、薬剤師の資格は持っていないんです。3年生のときに研究室に配属されてからは研究に専念してしまったので。薬剤師国家試験の勉強そっちのけで実験してました。先代の教授(体調を崩して退官した人)からは当時、『薬剤師の資格は持っていた方がいいよ』とは言ってもらったのですが、その人は薬剤師資格は持っていても一度も薬剤師として働いたことがないと言っていたので、私も薬剤師としてよりも研究者として生きていこうと思ったんです。」

結局、職の当てがないまま大学を卒業した。いきなり無職となったのだ。その後、先代の教授のつてを辿って、秋になってようやく某国立研究機関の技官の職に就いた。しかし、その職も研究プロジェクト単位での契約であり、翌年には別の任期付の研究補助員としての職に就くことになった。以来、15年間ずっと副島は不安定な職を転々としている。

「年老いた両親が悲しんでいるのが何より辛いんです。どうしてこうなっちゃたのかな、って時間があればいつも考えます。どこで道を間違えたんだろうかって。やっぱり私みたいなのが、研究者なんて華々しい人生を送ろうと夢見たのが間違いだったのかもしれません。」

副島は別れ際、「私なんかのお話を聞いてくださってありがとうございます」と深々と頭を下げてお礼を言った。そして、ラッシュで混み合う地下鉄に乗り込んでいった。

執筆者:樋口恭介(サイエンス・ライター)
 編著に研究者の頭の中: 研究者は普段どんなことを考えているのかがある。

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