報われないロスジェネ研究者たち





第5回(更新日:2019年1月23日)

久木鉄平・45歳

「小学生になっての初めての夏休み、家の近くの土手でヤマカガシがヒキガエルを丸呑みにしようとしていたんです。ヒキガエルは時々思いついたように動くだけで、結局最後まで抵抗らしき抵抗をせずに呑み込まれました。そのときのヒキガエルの表情は40年近く経った今も忘れられません。ヒキガエルに表情なんかあるのか、って笑われてしまいそうですけどね。でも、あのときのヒキガエルの表情は怖いぐらいに穏やかだったんですよ。」

そう語る久木鉄平(45歳・仮名)は、近く研究者を引退することになるらしい。今の職の任期がこの3月に切れるからだ。次の職の当てはない。

「任期付きの職に一度でも就いたら終わりですね。そこからの復活の見込みはほとんどありません。論文リストも、研究費獲得の経験も、教育歴も、どれも任期付きの職だとほとんど増えません。そして、そういう業績がなければ、任期付きの職の次も任期付きの職になります。もしくは、僕のように運に見放されると研究者引退です。」

***

久木は、博士号を取ってすぐに出身研究室の助教(当時の職位名は助手)となった。そこで4年間ほど助教として研究と教育を頑張った。しかし、アメリカ留学の夢に挑戦するため、助教の職を辞して渡米した。

「本当は助教のポジションを確保したまま留学したかったんですよね。留学は2年か3年で終わりにして日本に戻ってくる予定でしたから。僕らの上の世代は、そういうことができたんです。でも、僕の時代には助教のポジションを確保できるのは最大でも6ヶ月だったんです。6ヶ月間だと、留学しても研究面では意味がないですからね。どうすればいいか迷ったんですが、背水の陣という心構えで留学することにしたんです。留学して業績をあげれば、きっと未来は開けるって思ったんです。」

だが、その目論見は色々な意味でものの見事に外れた。まず、結婚秒読み段階にあった当時の恋人が、助教の職を辞めて渡米という決断をしたことで、久木の元を去ったのだ。

「あれは堪えました。てっきり留学に着いてきてくれると思ったんです。今でも、あのとき結婚してくれていれば、と思うことはあります。その後の彼女の動向ですか?あまり知りたくはなかったんですけどね、風の便りで別の人と結婚して幸せな家庭を築いているということは聞いています。」

久木は今も独身だ。結局、スタートの時点でケチがついた久木の留学は失敗の連続だった。最初に留学した研究室は、久木が留学してすぐの頃に、大学の動物施設と揉めて閉鎖になった。そのときは、何とか次の留学先を見つけられたが、そこは久木の専門とは微妙に違う研究室だった。右も左もわからない状態の久木は、何もできることがないまま時間だけが過ぎていった。

「そこの研究室は中国人とフランス人だけだったんです。英語も微妙な僕は、結局、中国語スピーカーとフランス語スピーカーの集団のどちらにも属せず、一人で慣れない研究プロジェクトをしていたんです。そして、まともなデータも出ないまま1年半が過ぎ、そこのラボを契約期間満了ということで追い出されました。」

久木の査証(ビザ)はJ1ビザだったため、そこの大学との雇用契約が切れてしまってはアメリカに居続けることができなかった。そのため、久木は日本で任期付きポスドクの職に潜り込むしか方法がなかった。

「結局、留学中まともな業績は得られなかったんです。日本に帰ってからも、1年とか2年の任期付きポスドクでは、まとまった仕事は形にできないし、年齢ばかりが増えるだけでした。給与も低いし、社会保障もない。結婚なんて出来るわけないですよね。」

だが、久木は必死に研究を頑張った。自分の境遇を恨むでもなく、ひたすら研究に取り組んだのだ。しかし、最終的に久木を待っていたのは、任期満了に伴う研究者引退だった。

「万策尽きたと言う感じです。研究者引退ってのは、研究者としての死を意味します。死に物狂いで何かをすれば活路が見出せると言う人は多いですが、実際に確実な死を前にした人間は動きが止まります。心も体も動かせず、静かに死を迎えるだけなんです。」

先のヒキガエルの話だが、その場面にいた大人たちは、なぜヒキガエルがもっと必死にもがいて逃げようとしないのか、と話し合っていたらしい。だが久木は、抵抗せずおとなしく呑み込まれていったヒキガエルの気持ちがよくわかると言った。

「恐怖ですよ。恐怖しかないです。後悔の気持ちもなくはないですし、こうなった境遇を恨む気持ちも少しはあります。でも、このまま研究者として終わるという運命が避けられないという事実は僕に恐怖しかもたらしません。」

任期満了後のことについて話を振ったが、久木は静かに首を振るだけだった。今は淡々とその日を待つだけです、と久木は穏やかな表情で最後にそう呟いた。

執筆者:樋口恭介(サイエンス・ライター)
 編著に研究者の頭の中: 研究者は普段どんなことを考えているのかがある。

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