報われないロスジェネ研究者たち





最終回(更新日:2019年2月27日)

馬場敦彦・47歳

ポスドクという単語が悲惨な響きを持つようになったのはいつからだろうか。

ポスドクとは本来、博士号を取得してから一人前の研究者(=自分でラボを主宰する)になるまでの間のトレーニング期間と見なされていた。しかし、バイオ系の博士号取得者が世界的に急増し、ポスドクをしている人間がラボの主宰者(Principal Investigator: PI)となれる割合が激減してしまった。

日本の場合も同様だ。「大学院重点化」および「ポスドク一万人計画」の影響を受けて、ロスジェネ世代(1970年〜1982年頃に生まれた世代)は博士号を取得する人数が増加した。しかし、ロスジェネ世代の博士号取得者のうち、少なくない割合がポスドクという沼にハマってしまっていると言われている。

「少なくない割合」という曖昧な表現なのには理由がある。国内および世界に散らばる日本人ポスドク(@バイオ系の分野)が何人いるかの正確な数字を、文科省を含め誰も把握できていないからだ。

高等教育を受けた人材を活用することが国力の増強に繋がることに異論はない。しかし、このように日本でも、博士号取得者のトレーニング期間である「ポスドク」から脱出できない研究者が増えている。彼らは名目上は今も「トレーニング中」であり、そのため彼らの能力がきちんと社会に還元されているとは言い難い。

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馬場敦彦(47歳・仮名)は30歳で渡米してから今までずっと医学系のラボでポスドクをしている。

「働いた研究施設によって職位名は色々だったけど、まあ俺がやってることを考えると常に自分はポスドクだったんだと言えるかな。」

そう笑いながら語る馬場には暗い影はあまり感じられない。事実、最近ではポスドク生活も悪くないかなと思い始めているらしい。

「そりゃあね、俺だって早く独立して自分のラボを持ちたいとずっと思ってたよ。アメリカ来てから数年も経つと、ポスドクのまま取り残されているという焦りはかなり酷くなってたし、そんなときに同僚が良い雑誌に論文を出した、Job Huntingのインタビューに呼ばれた、なんてのを聞いた日は夜眠れなかったよ。でもね、42歳か43歳くらいで、そういう気持ちは自然と薄れてきちゃったんだよね。」

馬場は独身だ。両親は日本にいて、近くには馬場の姉夫婦が住んでいる。姉夫婦には子供も二人いる。そして、その子供たちもすでに大学生だという。

「まあ気楽なもんだよ。結婚しろっていうプレッシャーもないし、孫の顔は姉ちゃんが見せてくれてるからね。ときどき電話して俺が元気だってことを知らせれば、親も心配しないしさ。あの世代にとっては、アメリカで研究してるってだけで何か凄いことをやってるって思うらしいよ。近所のじぃさんばぁさんもそう信じてるんじゃないかな。」

だが、このように達観できるようになるまでには様々な葛藤があったらしい。社会を恨んだこともあるし、世代間格差に憤りを感じたこともしょっちゅうだったという。今の馬場の様子からは想像もつかないのだが。

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「それにしてもさ、高学歴ワーキングプアだとかロスジェネ世代とかポスドク問題とか、よくもまあ次から次へと人を見下すような単語を考え出すよね、みんな。そのせいで俺も見事にそういう影響を受けちゃってさ、自分はそんな『悲惨な環境』から早く抜け出さなきゃとか思っちゃったんだよ。でもね、よくよく考えたら、俺は単に研究が好きだったってことに気づいたんだ。自分で実験をして誰よりも早く新しい現象を見つけるのにやり甲斐を感じる人間なんだよね、俺は。」

少し照れくさそう表情で馬場は続けて語る。

「ポスドクだからどうだとかPIだからどうだとか、若いときからそんなことに惑わされずに研究に専念できてたら良かったな、と今では思うんだよな。目の前の実験をきちんと正確にこなして、それが何かの形で科学技術の発展につながれば本当は十分なはずなんだよ、研究が好きで研究者やってる奴らにとってはね。でもさ、俺らの世代って、良くも悪くも周りから色んな情報が入ってくるようになってきてさ、研究者間の格差が一気に見えるようになったんだよ。だからさ、それまでの世代とは違って、否応なく自分のランクを突きつけられちゃった。俺の思い違いかもしれないけどさ、俺らの世代って、研究が好きでこの世界に入ったのに研究とは違う面で苦労してる奴が多いように思うよ。ま、俺が苦労してんのは、単に俺が無能だったからかもしれないけどね。」

そう笑う馬場に少し意地悪な質問を投げかけてみた。

「もし今からでもPIになれるチャンスがあったらどうするか、だって?ハハハ、君も人が悪いね。その質問は記事のためかな?それとも素なのかな?もし後者だったら他人事ながら心配しちゃうよ。君、友達はちゃんといる?」

豪快に痛いところを突いてくる。

「ハハハ、冗談だからそんな真顔にならないでね。その質問だけどね、PIになれるチャンスがあったら、そりゃあトライはするよ。自分の研究の自由度が上がるしね。今はたまたま良い環境にいて自分の研究プロジェクトに専念できてるけど、この状況がいつまでも続くとは限らないし。だから、自分がPIになって、自分の理想とする研究環境を直接的にコントロールできるようになるなら願ったり叶ったりだよ。だけどね、書類仕事だけに追われるようなPIにならなきゃいけないってんなら話は違ってくる。そんなPI職なら頼まれたってお断りだ。俺もポスドク歴が長いからさ、色んなPIを見てきたんだよね。でさ、その中には、どっからどう好意的に見ても研究者とは言えないようなPIが結構多くいたし、優秀な研究者のはずなのに研究はしないで政治と書類仕事だけしてる奴も見てきた。」

馬場は最後に「自分は最後まで研究者として恥ずかしくないような研究をしていきたいんだ」と力強く語った。そして、「ロスジェネ世代の研究者が自分を見失わずに研究に専念できるような環境ができてくればいいな」とも言った。

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研究者が研究に専念できる場所はどこなのか。そして、それは誰がどのように作れるのか。これらの問いは簡単なようで非常に難しい。だが、その答えが明らかになるとき、ロスジェネ研究者も真の意味で報われるようになるのかもしれない。

執筆者:樋口恭介(サイエンス・ライター)
 編著に研究者の頭の中: 研究者は普段どんなことを考えているのかがある。

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