SFミステリー小説:永遠の秘密
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最終章:右目と名前(5)
沢木キョウは何かを狙っていた。
相手は包丁を持っている。だが、子供とはいえ小学六年生で体が大きくなりつつある男の子二人に対して、相手は細身の女性と自分よりもずっと小柄な女の子である。
単純な力での勝負になったら、自分は空木カンナに負けるわけはない。拳銃などを持っているかもしれないが、包丁で脅しているのを見ると、その可能性は低い。
しかし、田中洋一に包丁を突きつけている立花美香にはスキがない。沢木キョウは、立花美香の意識がどこかにそれるタイミングをずっと狙っていたが、立花美香は常に田中洋一と沢木キョウに注意を払っていた。
「あの包丁さえとりあげられれば、自分と田中洋一で力を合わせて相手を倒し、無事に逃げられるはず」と沢木キョウは考えていた。だから、空木カンナの『一緒にいきましょう』という言葉には反応しなかった。
「沢木君、聞いている?何を考えているのかな?もしかして、この状況から逃げ切れる方法があるとでも思ってる?」と空木カンナが、再び不敵な笑みを顔に浮かべ、沢木キョウに話しかけた。と、そのとき、立花美香が何かに気づいた。
「空木様、サイレンの音が近づいてくるのが聞こえます。」
「私にはまだ聞こえない。どのくらいの距離?」
「このスピードだと十分、いえ、もしかしたら八分ほどで警察がここに到着するかもしれません。」
と言い、田中洋一の手首を掴んでいた左手を放し、立花美香は自らの左手首にはめた腕時計を見た。
「おかしい。彼らが出て行ってから、まだ二十分くらいしか経っていない。まさかあの男、駅に向かう途中で道を歩いていた人間から携帯電話を借りて警察に電話した・・・?」
「立花、すぐに脱出するよ。この家を燃やす準備は五分でできる?」
「三分で完了します。空木様はその男と一緒にキャンピングカーで待っていてください。」
その直後、「立花、右!」と大きな声で空木カンナが叫んだ。
立花美香がすぐに右を見ると、そこにいるはずの沢木キョウが消えていた。沢木キョウは身をかがめて立花美香に近寄っていたのだ。
立花美香が沢木キョウの居場所に気づいた瞬間、立花美香は包丁を持った右手の手首を強く握られ、その直後に脇腹に痛みが走った。そして、右手を後ろ手にひねられ包丁を床に落とした。と同時に、立花美香の右の頬にも痛みが走る。
「洋一君、逃げるよ。一階におりて家の外に出よう」という沢木キョウの呼びかけに、田中洋一は我に返り、何が起きたかを理解した。
立花美香が自分の腕時計を見て時間を確認し、空木カンナと会話をしているとき、立花美香と空木カンナの両者が自分から目を離したことに気づいた沢木キョウが、音もなく前屈みになって立花美香に向かって走り出したのだ。
空木カンナが立花美香に「右!」と叫んだときには、沢木キョウは自分の左手で立花美香の右手首を掴み、それを自分にむかって引き寄せるとともに右足で立花美香の右脇腹を蹴った。その後に自分の左手でつかんでいた立花美香の右手首をひねり包丁を落としたあと、少し前屈みとなった姿勢の立花美香の右頬を自分の右肘で打ち抜いた。
立花美香はうずくまっている。たしかに沢木キョウの言うとおり、今が逃げるチャンスだと田中洋一は思った。しかし、その瞬間「危ない」という沢木キョウの声が聞こえ、田中洋一は自分の体が沢木キョウの方に引っ張られるのを感じた。
田中洋一の目の前を何か光るものが通り過ぎ、沢木キョウの首筋をかすめた。その動きは、まるでスローモーションのようだった。と、同時に何か温かい液体が自分の左目に入った。それが、沢木キョウの血液だとわかるまでにそう時間はかからなかった。
首筋を抑えてうずくまる沢木キョウに向かって、「キョウ君!」と、田中洋一は悲痛な叫びをあげた。
沢木キョウの手は血で真っ赤にそまっている。近くに立っている立花美香の左手にはサバイバルナイフが握れていた。そのナイフで自分を刺そうとしたのを、沢木キョウが庇ってくれたのだった。
立花美香は「しまった」という表情をしていた。しかし、空木カンナは「立花、脱出だ。その出血なら助けるのは難しい。その右目が本当に存在するなら私たちの持っている資料のどこかに何かの記録が残っているはず。その子を回収しなくても例のプロジェクトを再開できる可能性はある。この家に火をつけて逃げるよ。早くしな」と、仲間にするつもりだった沢木キョウへの興味はすでに失ったかのように、立花美香に対して指示を出した。
「空木さん、何を言ってるの?キョウ君を助けて。立花先生も、そんなところに突っ立ってないで救急車を呼んでよ。今ならまだ助かるはずだよ」と、田中洋一は叫ぶ。
そんな田中洋一には目もくれず、空木カンナは部屋を出ようとする。自分の横を空木カンナが通ろうとしたとき、田中洋一は「空木さん、正気に戻って。そんな空木さんを見たら真中さんが悲しむよ」と、空木カンナに向かって叫んだ。田中洋一の左目は、沢木キョウの血が入ったため、まだ開けられないようだった。
田中洋一の叫びに、空木カンナは一瞬だけ悲しい表情をしたかのように見えたが、すぐに不敵な笑みを浮かべ、「何を言ってるの?これが本当の私よ」と田中洋一に向かって吐き捨てた。
「ウソだ。そんなの空木さんじゃない。真中さんと親友だった空木さんはそんなんじゃない。いつもの空木さんに戻ってよ。キョウ君を助けて!」
「何を言ってるの?私と真中しずえが親友?そんなはずないじゃない。私と沢木君の会話を聞いてなかったのかしら?私はプロテインXを持つ人間を探していただけよ。真中しずえがプロテインXを持っている可能性があったから近くにいただけ。あんな小娘、私の親友であるわけがないじゃない。」
空木カンナは、氷のような微笑を浮かべながら冷たく言い放った。田中洋一はそのセリフを聞いて絶望した。あまりにショックだったせいなのか、そのときの田中洋一には、空木カンナが赤黒くぼやけているように見えた。
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