生成AIが書いたバイオ系短編小説集



生成AIが書いたバイオ系短編小説集

聖域の虚像

東都大学大学院、バイオサイエンス研究科・松山研究室。
 そこは、最先端の知性が集う聖域などではなく、実態は「データ」という名の納品物を絞り出す工場だった。

博士課程2年の湖谷裕一は、夜10時、青白い蛍光灯の下で充血した目をこすっていた。
 視界の端では、遠心分離機の低いうなり音が絶え間なく響いている。鼻を突くのは、独特の消毒液と培養液が混じり合った、命の温かみを感じさせない無機質な臭いだ。

「……また、ネガデータか」

パソコンの画面に表示された統計ソフトの結果は、非情だった。
 彼が5年間、自らの時間の大部分を使って追いかけてきたタンパク質「A-1」。神経細胞の再生を劇的に促進するという仮説のもと、マウスの脳に投与し続けてきたが、得られた数値は対照群(コントロール)と何ら変わりない。誤差の範囲内。つまり、この5年間は無意味だったということだ。

湖谷は椅子に深くもたれかかり、天井を見上げた。
 このままでは学位(ドクター)は取れない。それどころか、奨学金という名の借金を背負ったまま、30歳を目前にして路頭に迷うことになる。

「湖谷くん、進捗はどうだね」

背後から、低く粘りつくような声がした。教授の松山だ。
 松山は、学界では「再生医療の若き獅子」と称えられているが、研究室の学生にとっては独裁者以外の何物でもなかった。

「……すみません。依然として有意差が出ません。投与量を変えても、細胞の生存率に変化が見られず……」
 「そうか」

松山は湖谷の横まで歩み寄ると、画面を覗き込むこともせず、吐き捨てるように言った。

「君の努力が足りないのか、それとも君に『視る力』がないのか。どちらにせよ、次のラボミーティングまでに『見せられるデータ』を持ってきなさい。うちの研究室からC誌・N誌・S誌を出せないような学生に、残る椅子はないよ」

松山が去った後、湖谷は拳を机に叩きつけた。
 「見せられるデータ」だと? そんなもの、この世のどこにも存在しない。自然界が「NO」と言っているのだ。

湖谷は自棄(やけ)気味に、顕微鏡で撮影した昨日までの画像フォルダを開いた。
 緑色に光るはずの神経突起は、どれも弱々しく、途切れ途切れだ。
 彼は、画像編集ソフトの画像編集ソフトを立ち上げた。本来は、明るさやコントラストを全体的に整えるために使うツールだ。

彼は、一枚の画像を拡大した。
 「ここが、もう少しだけ繋がっていれば……」
 マウスを動かし、トーンカーブを極端に弄る。暗かった背景が沈み込み、ノイズが消え、わずかな光の残滓が強調される。

さらに、ブラシツールを手に取った。
 透明度を5%に設定し、細胞の先端から、隣の細胞へと向かって、見えない糸を引くように。
 なぞる。なぞる。なぞる。

「……あ」

画面の中に、完璧な「真実」が立ち現れた。
 そこには、損傷した神経が見事に再生し、力強くネットワークを形成している様子が写っていた。
 それは科学的な事実ではない。湖谷裕一という男の絶望が描き出した、ただのデジタルドットの集合体だ。

しかし、その画像は美しかった。
 松山が、そして世界が求めている「正解」そのものだった。

湖谷の心臓が激しく脈打つ。
 「これは、調整だ。細胞の本来持っているポテンシャルを、見えやすくしただけだ」
 自分に言い聞かせる声が、静かな実験室に震えて響いた。

彼はその「調整済み」の画像を、論文用のテンプレートに貼り付けた。
 一度手を染めると、次はもっと簡単だった。
 グラフのバーを数ミリ持ち上げる。エラーバーを少しだけ短くする。
 外れ値として除外したデータに、適当な理由を添える。

作業を進めるうちに、湖谷の頭から霧が晴れていった。
 今まで自分を苦しめてきた「自然」という不確定な存在が、自分の指先一つで制御できる従順な奴隷に変わったのだ。

翌週のミーティング。
 湖谷が提示したデータを見た瞬間、松山の目がぎらりと光った。
 「……ほう。ついに捕まえたか、湖谷くん」
 「はい。条件を微調整したところ、顕微鏡下で劇的な変化が確認できました」

嘘をつく時、声が震えるのではないかと恐れていたが、実際は逆だった。
 あまりにも完璧な嘘は、真実よりも説得力を持って喉を通っていく。

隣の席で、同期の高橋が怪訝そうな顔で画面を凝視していた。
 高橋は、湖谷とは対照的に、不器用なほど愚直に実験を繰り返す男だ。
 「湖谷、これ……すごいな。でも、この条件、先週僕が試した時とは……」

「高橋くん」
 湖谷は、穏やかな、しかし拒絶を込めた微笑みで言葉を遮った。
 「細胞は生き物だからね。愛情を持って接しないと、結果は応えてくれないんだよ」

研究室のメンバーから感嘆の声が上がる。
 松山教授は満足げに頷き、湖谷の肩を叩いた。
 「よし、これでN誌を狙う。湖谷くん、君のプロジェクトは今日から最優先プロジェクトの一つだ」

湖谷は、高橋の疑惑の視線を背中に感じながら、深く頭を下げた。
 足元には、数え切れないほどの捏造データの死骸が積み上がっている。
 しかし、その死骸の山が高ければ高いほど、湖谷はより高い場所へと昇っていけるのだ。

深夜の実験室で独りになった時、湖谷は鏡に映る自分の顔を見た。
 そこには、かつて科学を志した青年の面影はなく、ただ、世界を騙し抜く覚悟を決めた「詐欺師」の冷徹な眼差しがあった。

(バレなければ、それは真実と同じだ)

彼は、偽りのデータが詰まったハードディスクを愛おしそうに撫でた。
 これが、彼の栄光の物語の、血塗られたプロローグだった。

***

湖谷裕一の書いた論文が世界最高峰の学術誌『N誌』の表紙を飾った日、東都大学の広報は大々的に記者会見を開いた。「神経再生の常識を覆す大発見」という見出しが躍り、湖谷は一躍、バイオ界の若きスターダムにのし上がった。

だが、華やかなフラッシュの裏側で、湖谷の日常は変質していった。

一度「完璧な結果」を出してしまった以上、次の実験も、その次も、同等かそれ以上の結果を出し続けなければならない。研究室の予算、松山教授の面子、そして何より湖谷自身の椅子。すべてが、あの「画像編集ソフトで描いた神経ネットワーク」の上に危うくバランスを保っていた。

「湖谷くん、次のプロジェクトだが」

松山教授は、以前よりもずっと親密な、しかし逃げ場を許さないトーンで切り出した。
 「A-1の効果をさらに高める複合因子の特定だ。これが成功すれば、A財団から数億円規模の大型予算が降りる。君を助教に推薦する準備もできているよ」

助教。博士課程を終えてすぐのポストとしては異例の待遇だ。
 湖谷は、乾いた喉を鳴らした。
 「……承知しました。全力を尽くします」

実験室に戻った湖谷を待っていたのは、期待に目を輝かせた後輩たちと、一人、冷めた視線を送る高橋だった。
 高橋は、湖谷のN誌への論文が出てからというもの、狂ったように追試(再現実験)を繰り返していた。

「湖谷、おかしいんだ」
 日曜日の夜、誰もいないラボで高橋が詰め寄ってきた。
 「君の論文の条件通りにマウスの脳損傷モデルを作って、A-1を投与した。でも、全ての個体の組織標本を細かく見ても、あの論文のような綺麗な再生は見られないんだ。僕の手技が悪いのか? それとも……」

高橋の目は充血し、指先は試薬の使いすぎで荒れていた。湖谷は、高橋のノートを一瞥した。そこには、泥臭く積み上げられた「真実の、しかし価値のないデータ」が並んでいた。

「高橋くん、君は真面目すぎるんだ」
 湖谷は、冷徹な計算のもとに言葉を選んだ。
 「科学には『コツ』がある。君が使っている抗体のロット番号は? 試薬を混ぜる時のピペッティングの回数は? わずかなノイズに惑わされて、本質を見失っているんじゃないか。僕の成功が、そんなに信じられないかい?」

「そうじゃない! 僕はただ、真実が知りたいだけだ!」

「真実なら、雑誌に載っている。それが世界の総意だ」
 湖谷は高橋の肩を強く突き放した。
 「君が再現できないのは、君の無能さの証明でしかない。これ以上、僕の邪魔をするなら、松山教授に報告せざるを得ないな。君が研究室の和を乱していると」

高橋は絶望したような顔で黙り込んだ。
 数週間後、高橋は大学に来なくなった。「重度のうつ病」という診断書が届いたという噂を聞いた。湖谷は、高橋が使っていたベンチを早々に片付け、彼が残した未発表の実験ノートをシュレッダーにかけた。

だが、ノートの中に一つだけ、利用価値のあるデータがあった。
 A-1とは別の、ある酵素がわずかに細胞死を抑制しているという、高橋が「効果が薄い」として捨てようとしていたデータだ。

湖谷はそれを拾い上げた。
 「これを、A-1と組み合わせた『劇的な効果』として仕立て上げればいい」

湖谷の捏造技術は、もはや画像加工に留まらなかった。
 AIを使って、12匹のマウスを使って実験したかのような統計データを数秒で生成し、そこに「もっともらしい誤差」を意図的に混ぜ込む。あまりに綺麗すぎるデータは疑われる。あえて「少しだけ失敗したデータ」を捏造することで、全体の真実味を補強する。

それは、嘘に嘘を重ねる「複利」の作業だった。
 元本(最初の嘘)は小さくとも、それを運用して得た名声と予算を元手に、さらに巨大な嘘を吐く。

30代半ば、湖谷はついに助教から准教授へと昇進した。
 彼の元には、製薬会社からの共同研究の申し出が殺到した。
 「湖谷先生、A-1をベースにした創薬、ぜひ我が社で進めさせてください」

スーツを着こなした企業担当者たちが、巨額の契約書を差し出す。
 湖谷は知っていた。この薬が人間に効くことは、万に一つもない。
 だが、彼は微笑んでペンを取った。

「もちろんです。人類の福祉のために、私の研究が役立つなら」

その夜、湖谷は企業担当者とともに高級な寿司屋にいた。
 一貫数千円のトロを口に運びながら、彼はふと考えた。
 自分はいつ、最後に「本物の実験」をしただろうか。
 ピペットを握る手は、いつの間にか滑らかになり、実験の苦労を忘れてしまっていた。

(バレるわけがない)

高橋のような「正しいが無能な者」は消えていく。
 自分のような「偽物だが有能な者」が、この業界の歯車を回している。
 自分がいなくなれば、大学の予算は削られ、製薬会社の株価は暴落し、多くの人間が路頭に迷う。
 もはや、湖谷の嘘は、湖谷一人のものではなくなっていた。

彼は、冷酒を飲み干した。
 背徳感は、もうない。あるのは、自分が世界の理(ことわり)を支配しているという、万能感にも似た快感だけだった。

「先生、お次は何を握りましょうか?」
 大将の問いに、湖谷は贅の限りを尽くしたネタを注文した。
 彼が食べているのは、かつての友の涙であり、未来の患者たちの絶望だった。だが、その味はどこまでも甘美だった。

***

40代半ばを迎えた湖谷裕一は、東都大学の教授選に史上最年少で勝利した。
 かつての恩師、松山は理事へと昇進し、湖谷はその王座を継承した形だ。今や「湖谷研究室」は、年間数億円の外部資金を回す、学内でも最大規模の利権集団となっていた。

湖谷の仕事は、もはや顕微鏡を覗くことではない。
 若手研究者や大学院生たちが持ってくるデータを「査定」し、それをいかに魅力的なストーリーに仕立てて政府や企業へ売り込むか。彼は科学者というより、熟練の「演出家」へと変貌していた。

「先生、今回の治験の中間報告ですが……芳しくありません」

准教授のポストに就けた子飼いの弟子が、顔を青くして報告に来た。
 大手製薬会社と進めている「A-1」を基にした脊髄損傷治療薬のフェーズU試験。被験者たちの運動機能改善率は、プラセボ(偽薬)群と統計的な差が出ていなかった。

「副作用の報告は?」
 湖谷は、特注の革椅子に深く腰掛けたまま、無機質に問い返した。
 「……数名に、激しい痙攣と意識障害が見られました。因果関係は不明ですが、このまま継続するのはリスクが高いかと」

湖谷は窓の外を見つめた。そこには、彼が寄付金で建てさせた最新鋭の研究棟がそびえ立っている。
 もしここで「効果なし」と認めれば、株価は暴落し、大学への寄付金は止まり、何より自分の築き上げた20年間のキャリアが砂上の楼閣のごとく崩れ去る。

「データの『層別解析』をやり直しなさい」
 湖谷は静かに言った。
 「全被験者で差が出ないなら、効果があった数名だけに焦点を絞り、その共通点を探すんだ。年齢、性別、遺伝子型……何でもいい。その特定の条件下では『劇的な効果があった』という形にレポートを書き直せ。副作用については、『既往症による偶発的な事象』として処理して、主文からは削除だ」

「しかし、それはデータの恣意的な抽出(チェリーピッキング)になります……」

「これは『最適化』だ」
 湖谷の目が、蛇のように冷たく光った。
 「何千人という患者がこの薬を待っている。小さなノイズのせいで開発を止めることこそ、科学者としての敗北だと思わないか?」

弟子は沈黙した。彼は知っていた。ここで湖谷に逆らえば、学界での将来は断たれる。
 数週間後、提出された報告書には「特定の遺伝子多型を持つグループにおいて、画期的な有効性を確認」という力強い言葉が並んでいた。

湖谷の権力は、学内だけに留まらなかった。
 文科省や厚労省の専門委員を歴任し、彼は「審査する側」に回った。
 ライバルたちの研究計画書を「再現性に疑問がある」という理由で却下し、自分の息のかかった研究室には潤沢な予算を流す。

かつて、高橋が叫んだ「真実」など、この巨大な円環の中では塵に等しかった。
 真実とは、最も大きな声を出し、最も多くの金を動かした者が決定するものなのだ。

ある夜、湖谷は都内の会員制バーで、かつての恩師・松山理事とグラスを傾けていた。
 「湖谷くん、君はよくやっている。科学界の救世主だよ」
 松山は、酒で赤くなった顔で笑った。
 「実は、君を次期学長候補として推す声が出ている。今のうちに、あの『A-1』の件……初期のデータに不備があったという噂を、完全に消しておきたい」

湖谷は指先でグラスの縁をなぞった。
 「不備などありませんよ、先生。すべては適切に処理されています」
 「わかっている、わかっているとも。ただな……最近、あの高橋という男が、どこかのジャーナリストに接触しているという情報があってね。昔のノートを持っているらしい」

湖谷の指が、一瞬止まった。
 「……対処します」

数日後、高橋の住むアパートに、湖谷が雇った敏腕弁護士と、大学の法務部が送り込まれた。
 「守秘義務違反」「名誉毀損」「研究データの不正持ち出し」。
 あらゆる法的手段をちらつかせ、精神的に不安定な高橋を徹底的に追い詰めた。

「君がやっていることは、日本の科学の未来を壊すテロ行為だ」
 湖谷は直接、高橋に電話をかけた。冷酷で、慈悲のない声で。
 「君のような敗北者の妄想に、誰が耳を貸すと思う? 警察もメディアも、こちらの味方だ。大人しく消えろ」

受話器の向こうで、高橋の嗚咽が聞こえた。
 一ヶ月後、高橋は自ら命を絶った。
 遺書には「真理は死んだ」と一行だけ書かれていたが、それは警察の要請を受けた大学側の根回しにより、公表されることはなかった。

湖谷は高橋の葬儀には参列しなかった。
 その日、彼は内閣府で「バイオ戦略会議」の議長として、1000億円規模の国家プロジェクトの指針を説明していた。

演壇に立つ湖谷の姿は、威風堂々としていた。
 彼が語る言葉の一つひとつが、明日の「事実」となり、教科書に刻まれていく。
 捏造から始まった小さな嘘は、今や国家の屋台骨を支える巨大な真実へと、見事に「成長」を遂げたのである。

***

湖谷裕一が次期学長選の本命と目されていた秋、彼のもとに一通の封書が届いた。
 差出人の名はなかった。だが、中に入っていたのは、20年以上前に湖谷が画像編集ソフトで加工した「A-1」の画像、その加工前のオリジナルデータと、修正履歴を詳細に解析したレポートだった。

「……バカな。あのデータはすべて破棄したはずだ」

湖谷の指が、わずかに震えた。
 高橋は死んだ。ノートもシュレッダーにかけた。だが、高橋は生前、大学の共用サーバーの奥深くに、暗号化したバックアップを残していたのだ。それを、正義感に燃える若手助教が偶然見つけ出したらしい。

数日後、週刊誌やネットニュースで「バイオ界の至宝・湖谷教授に論文捏造疑惑」という見出しが躍った。
 SNSでは検証班が立ち上がり、過去の論文の不自然な画像の継ぎ目が次々と指摘された。世論は沸騰し、大学側も無視できなくなった。

「湖谷くん、これはどういうことだね」
 学長室に呼び出された湖谷に、現学長が苦虫を噛み潰したような顔で問い詰める。
 周囲には、不正を調査するための特別委員会のメンバーが並んでいた。

湖谷は、ゆっくりと眼鏡を外し、ハンカチでレンズを拭いた。
 彼の脳内では、すでに数手先までのシミュレーションが完了していた。

「学長。これは、我が国の科学技術の発展を妬む勢力による、組織的な工作です」
 湖谷の声は、驚くほど落ち着いていた。
 「あのデータは、精神を病んで退学した元学生が、私を恨んで捏造した『偽の証拠』です。私が加工したのではなく、彼が私を陥れるために、後から加工データを作成してサーバーに忍ばせたのです」

「しかし、タイムスタンプは20年前のものだぞ?」

「サーバーの時計など、いくらでも操作可能です。ITに詳しい人間に頼めば、過去の日付でファイルを保存することなど造作もない」
 湖谷は、調査委員会のメンバー一人ひとりの目をじっと見つめた。
 彼らの多くは、湖谷が配分した研究費で食っている「身内」だ。あるいは、湖谷が理事を務める学会で恩恵を受けている者たちだ。

「もし、この言いがかりを認めてしまえば、どうなるかお分かりですか?」
 湖谷は、脅迫に近いトーンで言葉を継いだ。
 「A-1を基にした新薬開発は中止。製薬会社からの損害賠償は数百億円。大学のブランドは失墜し、現在進行中の国家プロジェクトの予算もすべてカットされます。皆さんの研究室も、明日から路頭に迷うことになる」

室内に、重苦しい沈黙が流れた。
 正義感よりも先に、自分たちの「生活」と「地位」への恐怖が、委員たちの首を絞める。

「……だが、世論が納得しない。外部の専門家を入れるべきだという声もある」

「外部? 私以上の専門家がこの国にいますか?」
 湖谷は鼻で笑った。
 「調査報告書はこちらで作ります。結論は『画像に不自然な点は認められるが、それは当時の未熟な撮影技術によるノイズであり、意図的な捏造の証拠は見当たらない』。これで決まりです」

一ヶ月後、大学が発表した調査結果は、湖谷の筋書き通りだった。
 告発した若手助教は不適な言動があったとして解雇され、アカデミアから追放された。
 メディアの追及も、大学側が「法的措置を辞さない」と強硬な姿勢を示したことで、潮が引くように収まった。

大衆は飽きっぽい。次のスキャンダルが起きれば、老教授の昔の論文疑惑など誰も覚えちゃいない。

湖谷は学長室の椅子に座り、高橋の遺影(を模したイメージ)を心の中で嘲笑った。
 「高橋くん。君の負けだ。真実が勝つんじゃない。勝った者が真実になるんだ」

彼は、疑惑を報じた週刊誌をゴミ箱に投げ捨てた。
 この騒動を経て、湖谷の権力はむしろ強固になった。
 「逆らう者は、組織を挙げて叩き潰す」という無言のメッセージが学内に浸透したからだ。

湖谷は、窓から見えるキャンパスを見下ろした。
 そこを歩く学生たちは、自分たちの学ぶ教科書が、一人の男の嘘で塗り固められていることなど夢にも思っていない。
 彼は完璧な勝利を収めた。あとは、このまま「聖者」として、人生を逃げ切るだけだ。

***

それから二十年の歳月が流れた。
 湖谷裕一は、東都大学の総長を二期務め上げ、今は名誉教授として、そして日本科学界の最高権威として、都心の超高層マンションの最上階に居を構えていた。

彼の傘寿(80歳)を祝うパーティーは、都内の超一流ホテルで開催された。
 会場には現職の大臣、製薬大手の社長、そして彼を「神」と仰ぐ数多の教え子たちが詰めかけていた。

「湖谷先生の発見された『A-1』がなければ、今日の日本のバイオテクノロジーはありませんでした」

壇上で若き研究者が熱弁を振るう。
 湖谷は、その言葉を満足げに聞きながら、クリスタルのグラスに注がれた最高級のシャンパンを口にした。
 「A-1」を基にした治療薬は、結局、劇的な効果を上げることはなかった。しかし、複雑な利権構造と「特定の条件下でのみ有効」という巧妙な定義付けによって、細々と、しかし高額な薬価で販売され続けている。
 それが何人かの患者に副作用をもたらしたとしても、厚生労働省の審議会を牛耳る湖谷の教え子たちが、すべてを「統計的誤差」として葬り去ってきた。

パーティーの喧騒が最高潮に達した頃、湖谷は少しばかりの酔いと、絶え間ない祝辞への疲れを感じ、側近を置いて一人、会場外の化粧室へと向かった。

大理石の床、金縁の鏡、微かに漂う高価な芳香剤。ホテルの喧騒が遠のき、静寂が支配するその場所で、一人の老人が手洗い場の前に立っていた。

使い古された安物のジャケット、震える指先。鏡越しに目が合った瞬間、湖谷はその男が誰であるかを思い出した。かつて彼を告発しようとして返り討ちに遭い、学界を追放されたあの若手助教だ。今は地方で複数のアルバイトを掛け持ちしながら、その日暮らしの生活を送っているという。

老人は、自動水栓から出る水で手を洗い続けながら、鏡越しに湖谷を凝視した。

「……湖谷先生。こんな場所で失礼します。清掃のアルバイトの合間に、どうしても、あなたのお顔を拝見したくて」

湖谷は眉ひとつ動かさず、優雅な動作でハンカチを取り出した。

「ああ、君か。懐かしいね。そんな惨めな生き方をしてまで、君はまだ自分が信じる『真実』を追い求めているのかね」

「最後に一つだけ、教えてください」
 老人の声は、水の流れる音に消されそうなほど細かった。
 「あなたは、一度でも、自分のしたことに後悔を感じたことはないのですか? 高橋さんの人生を狂わせ、嘘の上に築かれたこの虚構の王国を眺めて、何とも思わないのですか?」

湖谷は、蛇口から離れ、老人の隣に立った。
 鏡の中には、光り輝く勲章を胸に付けた「聖者」と、濡れた手で立ち尽くす「敗北者」が並んでいた。

湖谷は、穏やかな、慈悲深い聖者のような微笑みを浮かべた。

「後悔? なぜ私がそんなものを抱く必要があるのかね。私の嘘のおかげで、この大学に何千億という予算が降り、何万人という雇用が生まれ、日本のバイオ技術は守られた。君たちが守りたかった『真実』とやらが、この国の腹を膨らませてくれたことが一度でもあるかね?」

湖谷は、老人の肩に優しく手を置いた。それは、かつて高橋を絶望させた時と同じ、温かく冷酷な感触だった。

「私の『演出』こそが、停滞していたこの世界を動かす唯一のエネルギーだったんだよ。君のような無能な正義漢には、一生理解できないだろうがね」

初老の清掃アルバイトは絶句し、震える拳を握りしめたまま、鏡の中の自分を見つめることしかできなかった。
 湖谷は洗練された動作で身なりを整えると、一瞥もくれずに化粧室を後にした。

背後で、自動水栓が止まる音がした。

会場に戻った湖谷を、割れんばかりの拍手が迎えた。
 「先生、お戻りをお待ちしておりました!」
 「日本の宝、湖谷裕一先生に乾杯!」

***

数年後。
 湖谷は自宅のベッドで、静かな最期の時を迎えようとしていた。
 窓からは、彼がその名を冠した「湖谷裕一記念生命科学研究所」が見える。

枕元には、愛する妻と、優秀な医師となった息子、そして政界に進出した娘が寄り添っていた。
 「お父様、本当にお疲れ様でした。あなたは日本の誇りです」

湖谷は、薄れゆく意識の中で、人生を振り返った。
 大学院生時代、初めて画像編集ソフトのブラシで細胞を描き足したあの夜。
 高橋を冷たく突き放したあの午後。
 調査委員会を力でねじ伏せたあの会議室。

どれ一つとして、間違っていたとは思わなかった。
 むしろ、あの時、凡庸な正義感に負けて「真実」を認めていたら、今のこの幸福な光景はなかっただろう。
 彼は、自分という人間を、そして自分の描いた壮大な「虚構の物語」を、心から愛していた。

「……ああ、実に、いい人生だった」

彼は満足げに、深く、長い溜息をついた。
 心拍停止を告げるモニターの電子音が、静かな寝室に響いた。
 それは、彼が一生つき続けた嘘の終焉ではなく、その嘘が「永遠の歴史」として固定された瞬間だった。

一週間後、湖谷裕一の葬儀は準国葬に近い規模で執り行われた。
 弔辞を読んだ文部科学大臣は、涙ながらにこう語った。

「湖谷先生は、真理を探求し、常に誠実であり続けた、科学者の鑑でした。先生の遺志は、次世代の研究者たちに永遠に引き継がれることでしょう」

会場には、彼の功績を称える壮大な音楽が流れ、参列者は皆、その「偉大な沈黙」に深く頭を下げた。

彼が死の間際まで隠し通した「真実のデータ」が入った古いハードディスクは、遺品整理の際、何も知らない息子によって、中身を確認されることもなく最新のシュレッダーで粉砕された。

こうして、この世から湖谷裕一の罪を証明するものは、何一つとしてなくなった。
 捏造された論文は、今も世界中の研究者に引用され続け、新たな偽りの論文を生み出す種となっている。

墓石には、彼が指定した通り、黄金の文字でこう刻まれている。

『光は、常に正しき者に降り注ぐ』

その下で眠る男は、地獄に落ちることも、裁きを受けることもない。
 ただ、自らが作り上げた完璧な天国の中で、永遠に、穏やかな眠りについているのだ。


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