研究と恋愛〜ライフサイエンス研究者の幸福論



研究と恋愛〜ライフサイエンス研究者の幸福論

第7回:研究者夫婦/ASD/カサンドラ症候群

「遠いところまで、よくお越しくださいました。どうぞ、お座りください」

関東某所の駅から徒歩10分。閑静な住宅街の一角に建つ、築浅の明るい分譲マンション。その一室に招かれると、酒井理恵(42歳)が、2歳の長女を抱っこしながら、少し疲れた表情をのぞかせつつも、柔らかな笑顔で迎えてくれた。6歳になる長男は、近所の友人宅で開かれるお誕生日会に参加しているという。「ちょうど夫が送っていったんですよ」と、理恵は少し申し訳なさそうに笑った。

案内された3LDKのリビングは、すっきりと片付いた心地よい空間だ。おもちゃは種類ごとにプラスチックケースへ仕分けられ、それぞれに丁寧な手書きのラベルが貼られている。棚の上には家族の写真と、子供たちが描いたらしい色とりどりの絵が並び、整然としながらも温かみが感じられる。無駄なものを極力そぎ落としたその空間は、どこか研究室の機能美を思わせた。

「夫はね、物の配置やルールが決まっている方が、安心して過ごせるタイプなんです。だから、お互いがストレスなく暮らせるように、我が家は少しシステマチックに整えているんですよ」

理恵がそう言って微笑んだとき、玄関のドアが静かに開いた。長男を誕生日会に送り届けた夫・直樹(45歳)が、帰ってきたのだ。来客があると分かっているからか、少し緊張した面持ちで「あ、どうも、いらっしゃいませ」と丁寧に頭を下げる。寝癖のついた髪に、シワの寄ったチェックのシャツ。眼鏡の奥の目をわずかに泳がせながらも、「あ、コーヒー淹れますね」と、こちらの分も含めて静かに準備を始めた。

直樹は現在、近隣の私立大学で准教授を務めている。自宅からの通勤時間はドアツードアでわずか20分と短い。このマンションを購入する際、資金の一部を援助してくれたのは直樹の両親で、父もまた理系大学の元教授という学究肌の家系だ。一方の理恵は、大手製薬企業の研究所に研究職として勤務しており、毎朝1時間強の満員電車に揺られて通っている。

世間から見れば、羨むような「エリート研究者夫婦」。しかし、研究者としての共通言語を持ちながらも、ふたりの日常は「お互いの特性の違い」とどう折り合いをつけるかという、静かな試行錯誤の連続だった。

***

二人の出会いは、今から約20年前。関西の有名国立大学の、同じ研究室だった。

直樹は3学年上の先輩。当時の理恵にとって彼は、「実験の手際が鮮やかで、データにどこまでも誠実なのに、雑談には一切入ってこない、少し口下手で不思議な人」という印象だった。

ただ、研究室内での研究班が異なっていたため、学生時代はラボ内イベントや飲み会で軽く話をする程度で、ほとんど関わりがなかった。二人の関係が動いたのは、理恵が博士号を取得し、製薬企業に就職してから数年が経った頃。大阪で開かれた、ラボの同窓会でのことだった。

「ホテルの立食パーティーだったんですが、彼は壁際で一人、ずっとウーロン茶を飲んでいたんです。私が挨拶に行くと、顔を見るなり『君の修士論文の3章のデータ、あの細胞株の培養条件を変えたのは正解だったね。今でも僕のラボでそのプロトコルを使っているよ』って言ったんです。何年も前の、しかも後輩の地味なデータを完璧に覚えていて、それが第一声(笑)。でも、嘘やお世辞が飛び交う社会人の付き合いに疲れていた私には、その愚直なほどの誠実さが、なんだかすごく眩しく見えたんです」

その後、理恵の方から連絡を取るようになり、食事やデートを重ねるようになった。あるとき、理恵が「たまにはデートプランを立ててほしい」と軽く伝えたところ、翌々日に直樹からメールが届いた。

「〇月〇日19時、〇〇駅北口で待ち合わせ。イタリアンレストラン〇〇を予約済み。予算は一人5000円程度を想定」

まるで学会の出張計画書のような、必要事項だけが箇条書きにされた文面だった。

デートを重ねても、ロマンチックな雰囲気は皆無だった。待ち合わせ時間は分単位で厳守。理恵が10分ほど遅れたときは、怒る風でもなく「なぜ遅れたのか、次はどう改善するか」を真顔で聞いてきた。髪型を変えても、新しい服を着ても、全く気づかない。

「おかしな人ですよね(笑)。でも当時は、『研究に没頭している人だし、すごく純粋でシャイなんだな』って、好意的に受け止めていたんです。駆け引きもないし、浮気の心配もない。彼が私に向けてくれる好意は、不器用だけれど100%本物だと思えた。だから、私の方から『結婚とか考えていますか?』と聞いてみたんです。彼から『僕たちは結婚というスタイルに移行して、二人で生活するのが自然だし最適だと思う』と返されたときは、クスッと笑って『では、結婚しましょうか』ってなりました」

***

しかし、結婚して同じ屋根の下で生活を始め、さらに子供が生まれたことで、その「生真面目さ」の裏にあるコミュニケーションの難しさは、理恵の心身を確実に削っていった。

直樹には、明確なASD(自閉スペクトラム症)の傾向があった。かつては「アスペルガー症候群」とも呼ばれた特性で、他者の感情を行間から読み取ることや、状況に応じた臨機応変な対応が、生まれつき苦手という性質だ。子供という「予測不可能な変数」が日常に加わったことで、彼の思考回路は頻繁にエラーを起こすようになった。理恵自身も「自分にも少しそういう傾向があると思う」と話してくれたが、直樹のそれは明らかに異なるレベルだった。

「家事や育児は共同で行う」という約束のもと、直樹は言われたタスクを完璧にこなした。だが、それはあくまで「指示されたことだけ」だった。

「『泣いているからオムツを替えてね』と言うと、本当にきれいに替えてくれます。でも、その直後にミルクを吐き戻して泣いていても、彼は何もせずに突っ立っているんです。『オムツを替える』というタスクは完了したからなんです。私が『吐いてるから拭いて!』と言うと、彼はオロオロしてフリーズしてしまう。彼には『状況を読んで自分で判断する』という回路がないんです」

理恵は常に直樹への「詳細なマニュアル」を頭の中で組み立て、発注し続けなければならなかった。

さらに理恵を追い詰めたのは、感情を共有できないという「圧倒的な孤独」だった。

「仕事で大きなプロジェクトから外されて、ひどく落ち込んで帰った夜のことです。子供の寝かしつけを終えてから、『今日、すごく悔しいことがあって・・・』と泣きそうになりながら話しかけたら、彼はPCの画面を向いたまま、『それは○○さんの判断に問題があるね。社内政治に巻き込まれている部分もあるんじゃないか。いずれにしても、要因を整理して次に活かした方がいい』と返してきたんです。ただラップトップを閉じて、私の顔を見て『大変だったね』と言ってほしかっただけなのに。同じ部屋にいるのに、宇宙の果てほど遠く感じて、シャワーを浴びると言ってその場を離れ、声を殺して泣きました」

周囲に相談しても、「でも旦那さん、大学の准教授でしょ? 頼んだことはちゃんとやってくれるし、外で飲んだりもしない。浮気の心配もないなんて、むしろ羨ましいくらいよ」と言われるだけだった。

この苦しみを、誰も理解してくれない。その孤立感が、じわじわと理恵を追い詰めていった。

こうした状況に陥った配偶者が経験する精神的消耗は、「カサンドラ症候群」と呼ばれる。ギリシャ神話の予言者カサンドラにちなんだ名称で、ASDのパートナーを持つ人が、相手から感情的な共感を得られない状況を繰り返すうちに、深い孤独や悲しみ、抑うつ、心身の不調を引き起こす状態を指す。医学的な正式診断名ではないが、当事者の間では広く知られた概念だ。理恵もまた、理由もなく涙が出たり、満員電車の中で動悸が止まらなくなったりと、心身の限界に近づきつつあった。

***

お互いに悪意がないからこそ、すれ違いは切なく、そして残酷だった。そんな二人の関係が最も揺らいだのは、長女が生まれて数ヶ月後の、冬の夜のことだった。

連日の激務と二人の子育てによる慢性的な寝不足が重なり、理恵は38度を超える熱を出して寝込んでしまった。起き上がることもできず、寝室のベッドからリビングにいる直樹に声をかけた。

「ごめん、本当に体がしんどいから、私の夕飯は気にしないで。自分の分だけ何か食べておいてね」

数時間後、静かすぎるリビングが気になり、這うようにしてドアを開けると、上の子はテレビの前でぼんやりし、長女はベビーベッドで泣き疲れて眠っていた。直樹の姿だけがなかった。

彼は一人で近所の牛丼屋へ行っていたのだった。

「熱のせいもあって、絶望で目の前が真っ暗になりました。妻が倒れていて、幼い子供たちがいるのに、冷蔵庫のものを食べさせるとか、レトルトのお粥を温めるとか、そういう発想が彼には一切ない。『自分の分だけ食べておいて』という言葉を、字義通りにしか受け取れなかったんです。熱で震えながら長男にパンをかじらせていると、彼が『ただいま。牛丼食べてきたよ』って、悪びれもなく帰ってきて・・・」

「あなたは人間じゃない!」

理恵は初めて、直樹に向かって怒鳴り声を上げ、その場に泣き崩れた。なぜ妻がこれほど怒り泣き叫んでいるのか、直樹にはまったく理解できない様子だった。ただ戸惑い、怯えたように、その場に立ち尽くしていた。

***

「牛丼屋事件」の後、家庭には重苦しい空気が漂っていた。理恵は離婚すら考え始めていた。

そんな折、正月に義実家へ帰省した際、居間で二人きりになった義母が、声を落として理恵に話しかけた。

「理恵さん、いつも直樹のことで、たくさん苦労をかけてごめんなさいね。あの子、言葉の裏を読むのが本当に苦手でしょう? 実はお父さんも全く同じなのよ。私が昔、盲腸で入院した時も、お父さんは心配していないわけじゃないのに、どう声をかけていいか分からなくて、病室の隅でずっと論文を読んでいたわ。冷たいんじゃなくて、どうしていいか分からないのよ」

義母は温かいお茶を差し出しながら、静かに続けた。

「あの血筋の人は、具体的な指示がないと動けないの。だからね、『心配してほしい』と心の中で願うより、『ポカリスエットを1本買ってきて、子供にご飯を食べさせて』って具体的に言う方が、彼らも安心して動けるのよ。理恵さんは働きながら本当に大変だと思う。でも、直樹があなたと子供たちを大切に思っているのは本当だから。一人で抱え込まずに、彼が動けるようにルールを作ってあげてね。ごめんなさいね、本当に」

義母の言葉は、すんなりと理恵の心に入ってきた。義母もまた、何十年もかけて、不器用な夫との付き合い方を自分なりに見つけてきた人だったのだ。

そして直樹自身も、自分の特性が最愛の妻を追い詰めていることに気づき、彼なりに深く苦しんでいた。

「義実家から帰った夜、直樹がすごく申し訳なさそうな顔をして、一冊の小さなノートを持ってきたんです」と理恵は振り返る。「そこには、彼がネットで調べたのであろう『妻が体調不良の時のフローチャート』が、手書きでびっしりと書かれていました。@体温を測る、A子供にレトルトカレーを温める、Bポカリスエットを買う、Cお粥を準備する、って。そして震える声で言ったんです。『僕には、普通の人が自然にできる思いやりが分からなくて、いつも理恵を傷つけてしまう。でも、リストにしてくれたら絶対にやるから。どうか、見捨てないでほしい』って」

その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた何かが切れるように、理恵の目から涙が溢れた。

彼はロボットじゃない。ただ、心のシグナルを受け取るレセプターの形が、私とは少し違うだけだ。不器用だけれど、彼は彼なりに必死に、私を愛そうとしてくれている。

***

直樹の真摯な姿を目の当たりにして、理恵の中で何かがカチリと切り替わった。

「彼に『気持ちを察してほしい』と求めるのは、線維芽細胞用の培地で神経細胞を培養しようとするようなものだ、と研究者として腑に落ちたんです。だったら、彼が読み解きやすいように、明確なプロトコルを私が作ればいい。それは冷たい関係じゃなくて、お互いの特性を尊重し合うための、温かい工夫なんだと」

それからの理恵は、感情的なアプローチをやめ、やってほしいことを具体的かつ端的に伝えるようにした。リビングのホワイトボードに家族のスケジュールを書き出し、家事タスクはすべて言語化する。最初は「こんなことまで私がしなければいけないのか」という虚しさもあった。しかし、直樹が指示通りに、ときに自分よりも丁寧にこなしてくれる姿を見るうちに、その感情はいつの間にか薄れていった。

「今は、お互いにすごく楽になりました。彼は私の明確なリクエストを、誰よりも正確に、誠実にこなしてくれます。私が仕事で遅くなる日も、事前に送ったLINEの指示通りに、子供たちの夕食と寝かしつけを完璧にやってくれる。通勤が20分と短い分、彼なりに全力で家庭を回そうとしてくれているのが伝わってきます。愚痴を聞いてほしい時は職場の同僚や友人に頼ると決めてからは、彼に対して余計なストレスを感じることも減りました」

***

夕方5時を回る頃、書斎のドアが開き、直樹がカバンを手にリビングへ現れた。お誕生日会が終わる時間なので、長男を迎えに行くという。

「今日は少し風が強いから、念のため薄手の上着を持っていって。あと、帰りに、いつもの成分無調整の牛乳を1パックと、今朝食べたヨーグルトの6個入りも買ってきてくれる?」

理恵が穏やかな声で告げると、直樹は少しホッとしたような表情で「了解。上着と、成分無調整の牛乳1パックと、6個入りのヨーグルトね」と繰り返し、嬉しそうに頷いて玄関へ向かった。

その背中を見送りながら、理恵は長女を膝の上であやし、穏やかに笑った。

「別の人生もあったのかな、って考えることが、ないわけではありません。何も言わなくても気持ちが通じ合う人と暮らしていたら、どうだったんだろうって。あの同窓会で、違う人と話していれば、とかね(笑)」

理恵はそう言って、リビングの壁をふと見上げた。そこには、子供たちが描いた家族4人の絵が、賑やかに飾られている。お父さんの顔は少し四角くて生真面目そうだけれど、大きくて優しい笑顔で描かれていた。

「でも、この温かい家も、二人の可愛い子供たちも、不器用だけど一生懸命に向き合おうとしてくれる彼がいたからこそ、ここにあるんですよね。ライフサイエンスの研究も同じです。最初から思い通りのデータなんて出ない。試行錯誤して、条件を変えて、ようやくうまくいく。私たちの夫婦生活も、そうやって少しずつ、自分たちだけのプロトコルを作っている最中なんです」

心の性質は違う。コミュニケーションの形も、少し特別かもしれない。それでも、絶望の淵からお互いへのリスペクトと思いやりを諦めなかった二人の研究者は、今日もこの明るいリビングで、一歩ずつ確かな足取りで、家族としての日常を共に創り続けている。

*本連載は、著者が収集した多数の実例や証言を基に再構成したフィクションです。プライバシー保護および個人特定の防止のため、複数のエピソードを統合し、固有名詞の変更を含めた大幅な脚色を施しています。実在の特定の人物や組織を指すものではありません。


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