研究と恋愛〜ライフサイエンス研究者の幸福論
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第9回:特任助教/男性/30代後半/独身/恋人なし
バイオ系・ライフサイエンス系の研究室は、しばしば「修道院」に喩えられる。
一度その門を叩けば、若者たちは細胞のタイムコースに生活を合わせ、実験動物の世話に日々の大半を費やすことになる。外の世界の流行や、週末の街の様子は、閉鎖された研究棟のガラス越しに眺めるような、少し遠い出来事になっていく。
その閉鎖的な環境のなかで、若い研究者たちの恋愛や結婚は、実際のところどうなっているのか。今回は、都内の研究機関で役職名こそ特任助教だが、実際にはポスドクのような感じで働く佐々木智也(38歳)に、日々の生活を淡々と振り返ってもらった。大げさな悲劇としてではなく、この業界にいれば誰もが一度は経験する、ごくありふれた現実として。
なお「修道院」という喩えについて佐々木自身に尋ねると、彼は少し考えた後にこう答えた。
「禁欲を誓って入るわけではないので、正確には違う気がしますね。敢えて何かの例えを出すのなら、拘束時間という観点から『懲役』というのに近いのかもしれません。ただ、外の世界との縁が自然に切れていく感覚は、たしかに修道院という表現のほうが近い気もします。誰かに強制されたわけでもないのに、気づいたら異性と知り合う機会そのものがなくなっていた、という意味でもですね」
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佐々木は都内の私立大学の附属研究所で、がん細胞のシグナル伝達を研究している。このポストの任期は3年だという。白衣のポケットにはいつでもメモができるように小さなノートと使い古された短いペンがはいっている。平日はほぼ毎日、朝8時台にラボへ入り、実験の区切りがつく夜8時から9時頃に退勤するのが通常のパターンだという。
「恋愛が自分の人生から完全になくなったわけではないですが、生活の中での優先順位はかなり低いですね。僕らの仕事は、細胞やマウスという、時間の都合を聞いてくれない相手に生活を合わせる仕事なので」
佐々木はコーヒーを飲みながら、感情を込めるでもなく、そう説明した。
バイオ系の実験、特に培養細胞や実験動物を扱う研究は、スケジュールが「人間の都合」ではなく「生物の都合」で決まる。薬剤を投与した細胞は、3時間後、6時間後、12時間後といった決まった時間にサンプルを回収しなければならず、その時間がずれれば実験自体がやり直しになる。深夜や早朝にラボに来ることも、珍しくはない。
「普通の仕事なら、定時後に『飲みに行こう』とか『週末デートしよう』という約束が成立しますよね。でも僕らの場合、いろいろな事情で、そういう予定が予告なく直前に崩れることがままあります」
具体的なエピソードとして、佐々木は修士課程2年目の頃に1年ほど交際していた女性のことを挙げた。相手は学部時代のサークルの後輩で、社会人1年目だったという。
「最初の半年くらいは、彼女も『研究って忙しいんだね』くらいの認識で、大目に見てくれていました。ただ、あるとき彼女の誕生日に食事の予約を入れていたんですが、その日の午後に予定していた蛍光顕微鏡の予約が機器の不具合などで実験開始が遅くなってしまって、結局1時間ほど遅れちゃったんです。しかも到着してからも、翌朝早いサンプリングのことが頭から離れなくて、あまり会話に集中できていなかったと思います。その日を境に、彼女の態度が明らかに変わりました」
その後、佐々木は挽回しようと連絡の頻度を上げようとしたが、実験の谷間を縫って返すメッセージは要点だけの短いものになりがちで、次第に既読がついても返信が数日空くようになった。半年後、女性側から「これ以上一緒にいても、私は後回しにされ続けるだけだと思う」と告げられ、関係は終わった。
「責められるようなことではないと、今でも思っています。ただ、当時の僕には、彼女の不満に対して『それでも会う時間を作る』という選択肢が、現実的に見えていなかった。実験のスケジュールを調整するより、関係を諦めるほうが、結果的に楽だったんだと思います」
予定を事前に共有し、こまめに連絡を取り合うという、恋愛関係を続けるうえでの基本的なやり取りが、研究のスケジュールによってそもそも成立しにくい。佐々木の場合、この経験のあとにもマッチングアプリで何度か知り合った相手と食事の約束をしたが、いずれも同じような理由で自然消滅を繰り返し、ここ数年は新しく人と知り合うこと自体への意欲も落ちていったという。
例外的に印象に残っているのは、2年前、海外の学会に出張した際のことだという。
「学会会場で知り合った海外の大学で働くポスドクの女性がいて、学会期間中の4日間、食事に行ったり、発表の合間に近くを観光したりしていました。普段の生活では味わえないくらい、気楽に話せた記憶があります。連絡先を交換して、帰国後もしばらくはメッセージのやり取りが続きました」
ただ、相手は海外の研究機関の所属だったため、日本との往来には時間もお金もかかる。オンラインでのやり取りは数か月続いたが、互いに実験や論文の締め切りが重なる時期に入ると、返信の間隔が徐々に空いていった。
「特に喧嘩をしたわけでも、はっきり終わりを告げたわけでもないんです。ただ、次にいつ会えるかの目処が立たないまま、お互いのメッセージがだんだん短くなっていって、気づいたら半年以上やり取りが止まっていました。今思うと、あれが一番『普通の恋愛』に近い感覚だったかもしれません。距離と時間の制約さえなければ、あの人ともう少し先に進めたのかな、と考えることはあります」
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佐々木がもうひとつ挙げるのは、恋愛に振り向けられる気力そのものが、日々の研究生活のなかですり減っていく感覚だ。
博士課程からポスドクにかけての20代後半から30代前半は、一般的にはパートナーを探す年齢にあたる。しかし佐々木の実感では、その時期の大半が、論文の締め切りや実験の失敗への対応に費やされていくという。
「他のラボに先に同じ内容の論文を出されないか、任期が切れたあとどうするか。そういう不安が常にどこかにあります。実験がうまくいかない日が続くと、単純に気分が沈みますし、そのあとに『じゃあデートの準備でも』という気にはなりにくい。恋愛のために時間や気持ちを使うくらいなら、論文を1本でも多く読んでおきたい、という考えが先に立ってしまうんです」
こうした状態が長く続くと、恋愛感情そのものへの反応が鈍くなっていく、と佐々木は話す。誰かを強く好きになる、という経験自体が久しくない、とも。
一方で、ラボの中では、同じ研究員同士がある種の関係性を築くこともある、と佐々木は説明する。
「ラボ内で付き合うケースは、実際そう珍しくありません。ただそれは、恋愛感情というより、同じ苦労を共有している者同士の連帯感に近いところがあると思います。一日の大半を同じ空間で、同じような疲労を抱えながら過ごしているので、自然と距離が近くなる。それが恋愛に発展することもあれば、単に気の合う同僚のまま終わることもあります」
ただし、ラボ内での関係が長続きしないケースも多いという。佐々木は、以前所属していたラボで実際に見た例を話してくれた。
「同じタイミングで入った男女のポスドクが、1年ほど付き合っていた時期がありました。周りも薄々気づいていましたが、特に何も言わずに見守っていた感じです。ただ、共著で進めていた論文の投稿順(ファーストオーサーをどちらにするか)を巡っての教授を交えた話し合いがこじれたタイミングと、ちょうど二人の関係が悪化した時期が重なってしまったみたいです。別れたあとも、狭い実験室で毎日顔を合わせなければいけないので、空気が最悪でした。
結局、別のポスドク先が見つかったということで、半年後に女性のほうがラボを去りました。移動した先の研究テーマは本人の希望とも合っていたので、完全に人間関係だけが理由とは言い切れませんが、少なくとも『あの空気の中にはもういられない』というのは、本人も周りも分かっていたと思います」
この一件以降、佐々木自身はラボ内の相手と深い関係になることを、意識して避けるようになったという。
「別に潔癖なつもりはないんですが、うまくいかなかったときのリスクが大きすぎると分かってしまったので。ラボは人間関係の逃げ場がない環境なので、一度こじれると、実験にも、共著関係にも影響が出ます。恋愛感情よりも先に、そのリスク計算が働いてしまうようになりました」
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また、自分が結婚から遠ざかっている点について、佐々木が最も大きな要因として挙げたのが経済的な不安定さだった。
日本の博士課程進学者に対する経済的支援は、他の先進国と比べて手薄だとされる。ポスドクや特任助教の給与水準はプロジェクトや所属機関によって幅があるが、佐々木の周囲では、年収300万円台から400万円台の任期付き雇用が一般的だという。任期は1年から3年ごとの更新が多く、更新のたびに、次のポストが見つかるかどうかという不安がついて回る。
「同世代で一般企業に就職した友人たちは、それなりの年収があり、結婚や住宅購入といった話が普通に出てきます」
佐々木は、三年ほど前に大学時代の友人の結婚式に出席した際のことを振り返った。
「披露宴の余興で、新郎の会社の同僚たちが祝辞を述べていたんですが、『来年には課長昇進予定』とか『新居は〇〇に決まった』とか、そういう具体的な将来の話が普通に飛び交っていました。僕の隣に座っていた別の友人が、僕の近況を聞かれて『こいつはまだポスドクやってるんだよ』と紹介したとき、相手が一瞬、次の言葉に困ったような顔をしたのを覚えています。悪気があったわけじゃないと思いますが、あの一瞬の間だけで、自分の立ち位置がよく分かりました」
同じ年、実家の母親から見合いの話を持ちかけられたこともあったという。
「地元の知り合いの紹介で、一度だけ食事の場をセッティングされたことがあります。相手も30代前半の女性で、地元の企業で働いている方でした。仕事の話になったとき、『任期付きの研究職で、数年ごとに契約を更新している』と説明したら、表面上は『大変なお仕事ですね』と流してくれましたが、その後、その知り合いを通じて『もう少し安定した方を、というのがご本人の希望のようです』と、遠回しに断りの連絡が来ました。
責められる話ではないと分かってはいるんですが、こういうことが続くと、さすがに気持ちが萎えますね。まあ、話がうまく進んだとしても、相手の家族に挨拶に行くことを想像すると、身構えてしまいますよ。仕事の話になったときに、任期付きの研究職であることをどう説明すればいいか分からないですし。悪いことをしているわけではないのですが、安定した将来を約束できないという引け目は、正直あります」
佐々木が対比としてよく思い出すのは、博士課程の同期だった友人のケースだ。その友人は学位取得後、アカデミアに残らず、製薬会社の研究職に就職した。
「彼とは博士課程の1年生のときに、就職か進学かでよく話をしていた仲でした。結局、彼は企業に行くことを選んで、僕はアカデミアに残った。それだけの違いだったはずなんですが、数年経ってみると、状況はかなり変わりました。彼は就職して2年目に結婚して、去年、三人目の子供が生まれたと聞きました。年収も、どんなに少なく見積もっても軽く僕の倍はあるはずです。貯蓄額とかの差は考えたくもないですね。
彼を羨ましいと思う気持ちがないと言えば嘘になりますが、恨むような感情ではないです。ただ、同じスタートラインに立っていたはずなのに、選んだ道によってここまで生活の輪郭が変わるのか、という驚きは正直あります。彼の場合、就職してすぐに『定時で終わる仕事』『毎月決まった給料が今後も続く』という土台があったから、そのうえに結婚や子育てを積み上げていけた。僕にはその土台そのものがまだない、という違いなんだと思います」
経済的な基盤の乏しさは、恋愛や結婚に対する自信を少しずつ削っていく。佐々木自身、ここ数年は積極的に人と知り合う機会を作ることもなくなった、と話す。
「僕らが専門にしているライフサイエンスというのは、大きく言えば、人間の生活や健康をより良くするための学問なんです。なのに、それを研究している僕ら自身は、時間的にも経済的にも、結婚や子育てといった、いわゆる『普通の暮らしの恵み』からは一番遠いところに置かれている。そのことを『皮肉だな』と思うことはあります」
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しかし、佐々木によると、自分のような状況は彼一人に限った話ではないという。同じ研究科の同期や、これまで所属したラボの元同僚を思い返しても、30代半ばを過ぎて未婚のまま研究を続けている人は少なくない、と佐々木は言う。結婚した同僚の多くも、任期の切れ目や転職のタイミングで、単身赴任や遠距離婚を選ばざるを得なかったケースが目立つそうだ。
佐々木自身、正月に実家に帰省するたびに、親戚から結婚や将来の話を持ち出されることが恒例になっているという。
「毎年、親戚の集まりで『いつ結婚するの』と聞かれるのが、正直しんどいです。以前は冗談で返せていたんですが、30代半ばになってからは、聞くほうも冗談で流しにくくなってきているのが伝わってきて、余計に気まずい空気になります。両親も、表立っては何も言いませんが、他の親戚の孫の話になったときの反応で、内心を察してしまいます」
それでも佐々木は、研究そのものへの熱意は失っていないと話す。
「研究そのものは嫌いじゃないんです。むしろ好きだからこそ、ここまで続けてきました。ただ、それと引き換えに手放してきたものも、確かにあるとは思います。20代の頃は、いつか状況が落ち着いたら、その時に恋愛や結婚のことを考えればいいと思っていました。でも30代半ばになった今、その『落ち着いたら』が来る保証はどこにもないんだと、ようやく実感として分かってきた感じです」
佐々木はそう言うと、ぬるくなったコーヒーを飲み干し、時計を確認した。
「そろそろサンプリングの時間なので」
そう言って席を立ち、白衣のポケットにタイマーをしまいながら、実験室へと戻っていった。
生命の仕組みを研究する仕事に就きながら、自分自身の生活や人間関係を後回しにせざるを得ない。佐々木が語った内容は、極端な出来事ではない。むしろ、この業界にいれば誰の身にも起こりうる、ごくありふれた話として、彼自身も受け止めているようだった。
問題なのは、佐々木のような境遇は、個人の努力不足や選択の問題として片付けられがちだということだろう。もっと要領よく時間を管理すればいい、もっと積極的に出会いを求めればいい、という指摘は、外側から見れば正論に聞こえるかもしれない。しかし、佐々木の話を聞く限り、問題の中心にあるのは、本人の姿勢というより、任期付き雇用と不規則な実験スケジュールという、構造そのものだと感じられる。安定した雇用と、ある程度予測可能な生活時間。この二つがなければ、恋愛や結婚という「次のステップ」に進む土台自体が作りにくい。それは佐々木に限らず、同じような任期付きの立場で働く多くの若手研究者に共通する事情でもある。
今の若い人たちがアカデミアを敬遠する理由の一つはこういうところにあるのではないだろうか。
*本連載は、著者が収集した多数の実例や証言を基に再構成したフィクションです。プライバシー保護および個人特定の防止のため、複数のエピソードを統合し、固有名詞の変更を含めた大幅な脚色を施しています。実在の特定の人物や組織を指すものではありません。

