研究者の声:オピニオン



2013年4月9日更新

すべての公的研究費の複数年度予算化を

科学研究費補助金に基金化による複数年度予算制度が導入されつつあります。しかし、実はこの基金化が危機にさらされている、という話を聞いています。これは、たいへんだ!ということでこの意見を書いています。

単年度予算制度がいかにムダを生んでいるかについて、3年ほど前に私も関わりました「神経科学者SNSの提言」が問題提起を行いました。この提言は総合科学技術会議の「科学・技術ミーティング in 大阪」にてとりあげていただきました。科研費の基金化は、これを一つのきっかけとして文部科学省の「予算監視・効率化チーム」を中心に検討をしていただき、関係者のご尽力により実現に至ったものと理解しています。この基金化は単年度予算制度のさまざまな問題を解消することができるものとして研究者コミュニティでは好ましく受け取られているのではないでしょうか。

しかしながら、私がある筋からお聞きしたことによると、科研費の基金化は「財政規律に照らして望ましくないもの」として財務省からは認識されており、公的研究費すべてが基金化されるまでの道は容易ではないようなのです。このままでは、公的研究費すべてが基金化されるどころか、基金化された科研費ももとに戻ってしまうことすらもありうるのではないか、と危惧しています。つまり基金化が危機にさらされている状況といえるでしょう。研究者コミュニティが協力して、複数年度予算制度がなぜ必要なのか、それを導入することによってどんないいことがあるのか、について、現場からの声をしっかり国に伝えることが大事なのではないでしょうか。

以下に、これについて、私なりの意見を述べてみます。

研究の結果は予想できない
科学技術研究のほとんどについては、得られる研究結果によって研究計画が大きく左右されます。

そもそも計画した研究で予想した結果が得られるかどうかについては、実験・調査などをやってみなければわかりません。ある程度、どのようなるか複数の可能性が予測できる場合もありますが、そのようなものでも実際にその中のどれが正解であったかによって、計画が大きく変わってしまうことが多いです。例えば、ある疾患の非常に良いモデルマウスを確立することに成功したとしましょう。次に行うべきこととして、いくつかの薬物や物質を投与してその症状を回復させることを目標に、物質A、物質B、物質Cを試みる計画を立てたとします。この計画を遂行した結果、この中の物質Bが見事に症状の回復に成功した場合と、A, B, Cとも外してしまった場合では、その後の研究計画は大きく変わってきてしまいます。前者であれば、物質Bの症状回復の分子・細胞メカニズムを調べることや、他に副作用的なものがないかどうか、チェックするという研究に駒を進めることができますが、後者であればD, E, Fなど他の物質の効果の検証などを継続することになります。前者と後者では行う研究の種類は全く異なりますし、かかる費用・時間なども全く変わってきてしまうわけです。iPSの樹立を試みるような研究においてであれば、iPSを誘導する遺伝子セットがわかった場合と、わからずに遺伝子セットの試行錯誤を続ける場合では、かかる費用・時間なども本質的に変わってきてしまうのです。

当然のことながら、このような研究進行の各ステップにおいて、「年度」というものがきれいに単位になっているわけではありません。研究の種類によってこの種のものの1ステップの長さは、3日であったり、3ヶ月であったり、3年であったりするわけです。最初の枝分かれの次くらいまでは予想して計画を立てることもできるかもしれませんが、このステップはその後も延々と続き枝分かれの可能性はどんどん増えていきますので、1年後や3年後に何をしているべきか、などは極めて想像が困難なのです。

さらに言えば、純粋な科学技術研究においては、当初の計画を遂行している最中に予想もしなかったような意外な発見があることがあります。そのような意外な発見にもとづいた研究のほうが、当初の研究計画よりも遥かに重要であろう、という場合もあります。むしろ、その種の意外な重要発見と、そこから脇道にそれた研究によって、科学の本質的な進歩や真のイノベーションがもたらされることが多いともいえるでしょう。当初の計画を大胆に変更し、より重要であろうトピックにフォーカスすべき、というような状況は十分にありうることであり、むしろ歓迎すべきものなのです。

つまり、科学技術研究には「予想できない計画の枝分かれ」がそもそも原理的に想定されているはずなのです。

「起こりうるべきことを予想してうまく年度毎の計画をたてることができないのはその研究者の能力不足」という批判がありうるかもしれません。道路工事やビルの建設のように工程があり、各工程にかかる費用・時間の見積もりが容易です。そういったたぐいの事業しかご存じない方々は、研究もそのようなものであると誤解されているのかもしれません。今から3年で統合失調症の分子メカニズムを解明し、次の3年で創薬、その次の2年で動物での効果の検証、最後の2年で臨床治験を行い、計10年で統合失調症克服、といった具合で。そんな具合にいくわけがないですね、普通は。確かに10万人分のゲノムのシークエンスを粛々と行う、というようなファクトリー型の研究も中にはあり、その種のものは、その種の工事のように計画を年度ごとに立てやすいということはあります。しかし、こういったものは科学技術研究の中では例外中の例外です。通常の研究では「予想できない計画の枝分かれ」が本質であり、各ステップの費用や工期の予想が容易な道路工事のようなものとは全く異なるのです。つまり、各研究者の能力の問題ではなく、研究とはそもそも原理的に長期的な計画が立てにくいものであるわけです。

単年度予算制度が生む莫大なムダ
科学技術の研究はこのような予想できない無数のステップから成り立つ活動ですので、これを単年度予算制度という枠内に押し込めようとするのはもともとムリなのです。そのムリを通している結果、莫大なムダが生まれているというのが現状かと思います。「神経科学者SNSの提言」の際に行ったアンケートでは、回答者の9割以上の方々が、単年度予算制度にムダがあると考えていました(右図;「予算の9割以上がムダになってしまう」ということではありません、念のため)。

単年度予算制度から生まれるムダと、そこから派生する各種のマイナス要因を以下にリストアップしてみました。

 ・年度末駆け込み購入によるムダな使用:通常の研究では年度末に研究費が足りなくなってしまってはアウトであるようなことが多く(動物や細胞の飼育・維持などの費用が足りなくなったら大変)、また、意外な予想しない研究の展開によって突然の出費があることもあり(というよりもむしろ予想しない展開をもともと期待している)、年度の前半では研究費をできるだけ倹約しつつ使用する傾向になるのが普通です。すると、当然のように毎年年度末には予算がそれなりに残っているという状況が出てきます。これは不必要な予算が余っているのでは決して無く、仕方なくそういう具合にしている、ということです。しかし、年度末には使いきってしまう必要があり、「駆け込み購入」で必ずしもその時に購入しなくてよいものや、むしろ後に購入したほうがよいもの(購入後に時間とともに劣化し消費期限があるようなものはたいていそういうものです)を購入することになってしまいます。本来は繰越しをして、必要なときに、本当に必要なものを購入するのがベストなのですが。つまり物品の購入活動、もっと言えば研究活動そのものが単年度予算制度によって最適化できないことになります。

 ・残金ゼロ化のムダな努力:現在の仕組みでは、年度末までに研究費をきれいに使い切る必要があります。これをどうするかで頭を悩ませ、ただでさえ足りていない研究者の貴重な時間・労力を使うことになります。繰越は一応可能なようですが、これをしようとすると、科研費の場合、「理由書」を作成して、文科省の「事前相談会」なるものにいかないといけないようです。理由がしっかりしていないと、ダメ出しもあるようです。「来年度の備えであるということが事由となると事務手続きを進めるのは極めて難しい」というご指摘を受けたこともありますが、それ以外の「適切」な理由を考える必要もあり頭を悩ませます。それほど労力がかかり、かつ没収の危険性もあることをするには勇気が必要ですので、実際には年度末使いきり、という選択をする研究者がほとんどだと思います。つまり繰越をするにせよ、しないにせよたいへんな時間と労力がかかってしまうのです。時間と労力にはすべて人件費がかかっているのですが、計算すればどの程度のコストがかかっているのでしょうか?この種のことは数値には出てきにくいですが、大きなムダとなっているのは間違いないです。

 ・年度毎の報告書・計画書:単年度予算制度があるがために、年度ごとに報告書・計画書を提出する必要があります。研究成果の報告の基本は学術論文であると思いますが、年度ごとに報告書・計画書も提出しなければいけないので二度手間になっています。細々とたくさんの小さな研究費を取得しているとこれがまたばかにならない量になります。研究者は研究そのものに集中したいわけで、これを大いに阻害しています。研究のサイクルは、論文を発表するところがちょうど良い区切りなわけです。それをもって報告書とするのが最も効率が良く、そのサイクルと無関係で区切りのわるいところで中途半端に結果を出してしまうのは競争という意味でも好ましくないでしょう。肝心のところは出さなければよい、という意見もよく聞きますが、そういうことであれば報告書の意味がないですね。また、世の中には(分子生物学会会員には少ないかもしれませんが)、論文をあまり書かず報告書・計画書のようなもので成果の報告をしている気になってしまっている研究者もいらっしゃるようです。これは全く本末転倒なことであって、そういう状況を生み出しているのも見逃せない部分です。単年度予算制度にとらわれず、論文を究極の報告書として認定する(そして何らかの事情で論文を発表できない場合にのみ現状のタイプの報告書を出す)ような仕組みの導入が欲しいところです。

 ・研究費を節約しようという動機の低下:年度末に残金ゼロ化しようという努力のために、本来、必ずしも必要でない物品を買ってしまう、という行動が普通になるわけです。随分前の話しですが、私が以前在籍していた研究所では年度末になると、ウン千万円余っているので至急使い道を考えてください、というような指示がきていました。とりあえずシークエンサーでも買っておくか、ということで買うのですが、そもそもそれほど頻繁には使わないからこれまで買っていなかったわけで、結局、ベンチの貴重なスペースに鎮座して二重のムダになってしまった、ということがありました。こういうことが常態化してしまうと正常な金銭に関する感覚がだんだんマヒしてくるもので、貴重な税金からいただいている研究費を大切に、そしてできるだけ有効に使用しようという気持ちがだんだん薄れていってしまうということがありうると思います。貴重な研究費を大切に節約しつつ使おうという動機の低下をも系統的に生んでしまう仕組みとも言えるでしょう。

 ・年度末をまたぐ際の問題:現状ですと年度末をまたいだ物品の発注・納品や、年度をまたいだ出張などが困難です。つまり、年度末にはこのために研究がストップしてしまうことがあります。年度をまたぐことができないので、2月までに使い切るように、という指示をいただいたりするわけです。そうすると年度開始までの研究に支障がでてくるのは当然です。機関や研究費の種目によっては1月あるいは年内(12月末)に使い切るように、というようなこともあるとのこと。必要が出てきたものを必要のあるときに迅速に入手したい。必要な実験を、その実験ができる共同研究先で一刻も早く行いたい。熾烈な競争をしている分野などでは、この期間の研究の停止や遅れが命とりになってほとんどの研究が無に終わってしまうようなこともないとは限りません。「一番でなくていい、二番でもいい」という考え方であれば悠長に規律に従ってさえいればよいでしょう。しかし、研究の世界では「一番になる」必要が普通はあり、一日たりともムダにしたくないのです。競争の相手がいないような研究も中にはあるかもしれません。そんな場合であってもできるだけ早く研究成果を世にだしたいことに変わりはないでしょう。研究活動を最適化しようと思えば、年度末などあたかもそんなものは存在しないかのごとく活動を続ける必要があるのです。単年度予算制度はそのような最適な研究活動を阻害し、国益、さらに言えば人類の利益を大きく損なわせている仕組みといえるでしょう。

 ・「預かり金」という種の不正:「預かり金」の不正というのがいまだに後をたちません。これだけ厳しく取り締まっているのに、なぜこのような「不正」が無くならないか、ということを考えますと、一言で答えるとすれば「単年度予算制度があるから」ということになるでしょう。預かり金という不正は、単年度予算制度の下の各種の倫理的な不正(これは法的な意味の不正とは異なる)を回避しようとして考案された法的な不正、ということも言えると思います。日本は法治国家であり法的な不正は許されてはいけないのは当然ですが、法律や憲法の中に、時代の変化などに伴い倫理的・経済的に不適切になってしまっているものがあれば、それを変える(ないしは適切になるような運用を行う)ことを検討・提案するのがあるべき姿ではないでしょうか。

 ・検収作業というムダ:単年度予算制度があるからこそ、預り金という不正が横行し、その結果、「検収」というたいへんな作業が導入されてしまったわけです。検収には人件費とそのスペースのコストがかかります。これに国全体でいくらの費用がかかっているか知りたいものです。

単年度予算制度とは
このように膨大なムダを生み、モラルの低下をもたらし、そして国益と人類の利益を損なわせていると考えられる単年度予算制度はなぜ存在するのでしょうか。

それは、憲法で決められた単年度主義の原則があるからだと思われます(以下のURL参照)。

http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/rxr_detail/?id=20080221-90003111-r25

つまり憲法と法律に記されている単年度予算主義の原則にもとづき、予算の使途について厳重にチェックして財政規律を守るため、というのがその答えになるでしょう。

複数年度予算制度をすべての研究費に!
しかし、この憲法・法律におけるルールの当初の目的あるいは本来の目的が、「毎年、国会による点検を受け、財政民主主義を図る」というところにあるのであるとすれば、今の時代、何も単年度予算制度に固執する必要はないのではないでしょうか。

一部の科研費に導入済みの基金化をすべての公的研究費に導入しつつ、何に使用したかはきちんと点検するということが一つの有効な手段でしょう。既にこの基金化という方法でそれほど大きな問題もなく運用ができているのですから、これを拡大することが大切だと思います。基金化したからといって適正に使用されているかどうかの点検ができないわけがないのです。点検には今の時代、ネットという強力な武器を使うことができます。例えば、研究費の執行を、特殊な専用のクレジットカードベースにする。何をいくらでいつ購入したか、その明細が透明になっており国が(あるいは誰でも?!)リアルタイムに閲覧できるような仕組みを構築すれば、毎年どころか、常時点検がなされることになります。検収などをせずとも、抜き打ちでその物品が納品されているかどうか随時点検をすれば十分でしょう。十分というより、そのほうがむしろ強力な点検が可能かもしれません。単年度予算制度が事実上無くなってしまえば、預かり金をするモチベーションも激減するので、検収の必要性もほとんどなくなるのではないでしょうか。直接経費で購入できない類のものを買いたい、という動機による不正は減らないかもしれませんが、それは間接経費の使用可能用途を拡大することなどによって減らすことはできるでしょう。

つまり、単年度予算主義などという古くてかつ国益を損なわせてしまうような手法を用いなくとも、今の時代では別の方法で財政規律を守ることができるはずなのです。

もう少し踏み込ませていただきますと、単年度予算主義については、憲法すらも改善していただいたほうが良いのではないでしょうか。古くて不適切になってしまったルールに黙って従っていて国益を損なわせるのは、よろしくありません。最近になって、法律はもとより憲法すらも変えるべきものは変える、という機運が盛り上がってきていると思います。(憲法の他の部分はまた別の話かと思いますが)単年度予算主義の部分については改善していただいたほうがうれしい、と思うのは私だけでしょうか(研究費にかぎったことではなく、年度末の道路工事の増加、とかは一納税者として愉快には思えませんし)。

最後に一言付け加えておきますと、「ムダ」という言葉を使っていますが、これは研究費が余っていてムダがでているという意味では全くありません(そういうところも中にはあるでしょうが)。研究費は全く足りていないのにもかかわらず、貴重な研究費や労力を浪費してしまわざるを得ない仕組みが存在するということです。そのよろしくない仕組みの親玉みたいなものが単年度予算制度、ということですね。

ということで、この問題について皆さんいかがお考えでしょうか。単年度予算制度のためにこんなムダが生じている、こんな目にあった、などの情報やエピソードがあればお寄せいただけますと有難いです。忌憚のないご意見ももちろん歓迎です。アンケートも実施していますので、ぜひご回答ください。よろしくお願いいたします。

執筆者:藤田保健衛生大学・教授・宮川剛
(この意見は筆者が所属する組織の意見を反映しているものではありません)

*本記事は日本分子生物学会の『日本の科学を考える』より許可を得て転載させていただきました。転載元のページにはコメント欄もあり、本記事の内容に関して様々な議論が行われています。また、アンケートも転載元のページにあります。

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