読書感想文:「ポストドクターの正規職への移行に関する研究」を読んで
Tweetその9(更新日:2014年10月27日)
母集団
本連載が取り上げている『ポストドクターの正規職への移行に関する研究(http://www.nistep.go.jp/wp/wp-content/uploads/NISTEP-DP106Fullj.pdf)by 科学技術・学術政策研究所』は、ポスドクの職に就いている人が次年度に正規職へと移行する割合が6.3%に過ぎないと報告しています。そして、その移行率は大卒や高卒の非正規職の人が正規職へと移行する率よりも大幅に低いとまとめています。
しかし、これまでに見てきたように、この報告書の内容には不適切・不正確な箇所が多数見受けられ、この報告書の結論をそのまま鵜呑みにすることは非常に危険であると言えます。
この連載では、『ポストドクターの正規職への移行に関する研究』の間違っていると思われる箇所を、出来るだけ客観的に指摘しています。そのようなことをする理由は主に二つあります。
1)ポスドク問題は今もまだ我々の研究業界において未解決の問題です。問題を解決するためには、その問題を正確に把握する必要があります。しかし、この報告書(『ポストドクターの正規職への移行に関する研究』)は、ポスドクの実態を誤った内容で報告しており、ポスドク問題の解決がより困難になってしまう危険性があります。そのため、本報告書のどこが間違っているかは、きちんと明らかにしておかなければいけません。
2)なぜポスドクが今のように悲惨な境遇に陥っているか。その理由はこれまでにも色々と言われてきました。おそらくは単一の原因に由来するものではないと思われます。しかし、原因の一つとして、「国がポスドクの数を増やそうと働きかけた」は無視できない点だと思われます。
もちろん、現在のポスドク問題の責任を全て国にありとするのは暴論だと思います。しかしそれでも、ポスドク問題の原因の一端が国にある以上、国は真摯にポスドク問題に取り組むべきだと思います。(また、それけではなく、ポスドク問題の解決は科学技術立国としての日本の立場も強くするはずです)
それなのに、ポスドクの現状をまとめた報告書を国が出す際に、このような不正確な内容のものを提出するのは大きな問題であり、それは誰かがきちんと批判しなければいけないと思われます。そうしないと、今後も不正確なポスドク報告書が国から出てきてしまい、今以上にポスドク問題が悲惨な状況になってしまいます。
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さて、本題に移ります。今回は「ポスドクの正規職への移行が他の学歴と比べて著しく低い」という点について見ていきます。
この主張は、博士課程まで行ってもポスドクになってしまうと大卒や高卒よりも正規職になりにくいという論調で報道され、残念なことに、一部の「ポスドクを蔑みたい人たち」にとってポスドクを攻撃する良い材料となってしまっています。
しかし、この報告書は正しくはありません。そもそも、前回(その8)見たようにポスドクから正規職への移行率が6.3%という数字すら正しくありませんので、ポスドクと大卒や高卒等の正規職への移行率を比較すること自体にあまり意味はありません。
ですが、念のため、この報告書がどのようにしてポスドクと大卒や高卒等の正規職への移行率を比較したか、そしてその比較がどのように間違っているかを見ていきます。
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この報告書(『ポストドクターの正規職への移行に関する研究』)がどのようにして、大卒や高卒などの非正規職から正規職への移行率を算出したか。それは本報告書の25ページなどに書かれています。以下は該当箇所の引用です。
(引用ここから)
平均で6%台(注:ポスドクからの正規職への移行率)という移行率は高いのだろうか、低いのだろうか。この点を検討するために慶應家計パネル(Keio Household Panel Survey, KHPS)との比較で見てみよう。KHPSは特定の層に焦点を当てるのではなく、社会全体の人口構成を反映した家計パネル調査であり、契約社員や派遣社員などの非正規職にある人が、1年後にどのような仕事に就いているかを知ることができる。石井・佐藤・樋口(2010)ではKHPSを用い、本研究と同様に非正規雇用から正規雇用への転換割合(移行率)を算出している。
(引用ここまで)
つまり、慶應家計パネルという家計パネル調査のデータを元にして、大卒や高卒などの非正規職から正規職への移行率を算出したということです。
ただし、ここで注意しておかなければいけないのは、この報告書(『ポストドクターの正規職への移行に関する研究』)の著者たちが、慶應家計パネルのデータに直接アクセスして大卒や高卒などの非正規職から正規職への移行率を計算したわけではないということです。
著者たちは単に、先に引用した文章に出てきた「石井・佐藤・樋口(2010)」の文献にある数値を持ってきただけです。事実、この報告書(『ポストドクターの正規職への移行に関する研究』)の26ページにある図表6「学歴別、正規職への移行率」は、「石井・佐藤・樋口(2010)」の文献(http://ies.keio.ac.jp/old_project/old/gcoe-econbus/pdf/dp/DP2009-033.pdf)の25ページにある図表11「学歴別、非正規雇用から正規雇用への転換割合」と同じものです。
とすれば、この報告書(『ポストドクターの正規職への移行に関する研究』)の著者たちが、慶應家計パネルの調査についてほとんど調べていない可能性があります。
私は、慶應家計パネルの調査の実際のデータまではアクセスしませんでしたが、慶應家計パネルの調査がどのような質問により行われているかは確認できました。その調査票はhttp://www.pdrc.keio.ac.jp/open/aboutkhps.htmlで閲覧できます。
私が慶應家計パネルの調査で特に気になったのは、非正規職と正規職をどのように定義しているかです。なぜならば、正規職・非正規職の定義は人(調査)によって大きく異なり、少なくとも本報告書(『ポストドクターの正規職への移行に関する研究』)の正規職の定義は私には同意できないものだったからです(「その6」を参照)。
ただ、残念ながら、慶應家計パネルの調査票ではこの点に関して具体的な定義は記載されていませんでした。しかし、就業形態のコード表には
1. 自営業主
2. 自由業
3. 家族従業者
4. 会社・団体等の役員
5. 正規の職員・従業員
6. パート・アルバイト
7. 派遣社員
8. 契約社員・嘱託
9. その他
とあり、先に紹介した「石井・佐藤・樋口(2010)」の文献(学歴別の非正規職から正規職への移行率を算出した報告書)では、「6. パート・アルバイト」「7. 派遣社員」「8. 契約社員・嘱託」を非正規職としていることが確認できました。
では、果たしてポスドクの職に就いている人は、この慶應家計パネルの調査ではどの就業形態に属するのでしょうか。
そこに明確で絶対的に正しい回答はないのかもしれません。ただ、個人的な考えを述べさせていただけるのならば、大学もしくは研究機関にフルタイムの仕事を与えられているポスドクは、「5. 正規の職員・従業員」になるのではないでしょうか。少なくとも、「6. パート・アルバイト」「7. 派遣社員」「8. 契約社員・嘱託」には当てはまらないと思います。
もちろん、ポスドクを「5. 正規の職員・従業員」に入れることに同意しない人もいるでしょう。しかし、そうであるのならば、この報告書(『ポストドクターの正規職への移行に関する研究』)では、自らの報告書における正規職の定義と、慶應家計パネルの調査における正規職・非正規職の定義について、きちんと議論すべきだと思います(実際には、そのようなディスカッションは皆無です)。
また、もう一つ慶應家計パネルの調査とポスドク調査には大きな違いがあります。それは国籍です。慶應家計パネルの調査では明確な記述はないものの、データの大部分は日本人から来ていると思われます。しかし、この報告書(『ポストドクターの正規職への移行に関する研究』)では、およそ25%が外国から日本に来てポスドクをしている人のデータです。
当然のように、この報告書(『ポストドクターの正規職への移行に関する研究』)では、使っているデータの「国籍」については論じていませんが、もしポスドクの正規職への移行率と他の学歴の正規職への移行率を比較したいのであれば、それぞれの調査の母集団の違いには、きちんと注意を払うべきではないでしょうか。
少し厳しい表現を使うのであれば、母集団の違いについて議論がなされていないこの報告書(『ポストドクターの正規職への移行に関する研究』)の結論は、「信じるに値しない」とすら言えます。したがって、過去の連載で見てきたポイントなどと合わせると、マスコミなどが報道した「ポスドクの正規職への移行が大卒など他の学歴の正規職への移行率よりも低い」という結論を鵜呑みにするのは非常に危険だと思われます。
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さて、これまで9回に渡り『ポストドクターの正規職への移行に関する研究』の不正確さを追求してきました。次回は最終回として、これまで見てきたポイントの総括を行おうと思います。
執筆者:広義の意味でのポストドクター