AIはバイオ研究者の生き方をどう変えるか
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第2回:速くなっても軽くならないもの
◾️締切の週の研究室
前回は、AIが研究のどこで使われ、どこで使われていないかを見ました。書くことと探すことは安くなったが、確かめることは安くなっていない、というのがそこでの見立てです。そして最後に、査読者が足りないことも、申請書に時間を取られることも、再現できない論文が多いことも、AIが持ち込んだ問題ではないと書きました。今回は、それら以前からある問題のほうを見ていきます。
研究費の申請書の締切が近い週の研究室を思い浮かべてください。教授室のドアは閉まっていて、中では研究計画調書の「研究目的」の欄が何度目かの書き直しを受けています。准教授は講義の準備と申請書のあいだを往復しています。助教の受信箱には、名前を聞いたことのない雑誌から査読の依頼が届いています。ポスドクは実験の合間に公募情報のサイトを開き、自分の任期があと何か月残っているかを数えます。修士2年の学生は、その様子を横目で見ながら、博士課程に進むかどうかを考えています。締切の前の週になると、実験室は少し静かになります。デスクワークをする人が増えるからです。
特定の研究室の話として書いたわけではありません。国内の生命科学系の研究室であれば、どこでも似た場面があるはずです。そしてこの場面には、この業界が長く抱えてきた問題の大半が写っています。職が足りない。お金が足りない。時間が足りない。読む人が足りない。
AIがこれらをどうするかを考える前に、それぞれがどういう種類の問題なのかを確かめておきます。そのために、この回では一つの問いを繰り返し使います。この問題は、作業が速くなれば軽くなる種類のものか、という問いです。
AIがいま研究者に提供しているのは、主に作業の速さです。文章が速く書ける。文献が速く見つかる。問題の正体が作業の遅さであれば、AIは効くはずです。正体が別のところにあるなら、速さだけでは軽くなりません。以下、五つの問題にこの問いを順に当てていきます。
◾️席の数
最初はポスドクの話です。
文部科学省と科学技術・学術政策研究所は、国内の大学と公的研究機関にいるポスドクを3年ごとに数えています。公表されている最新の調査は2021年度のもので、延べ13,657人でした。2018年度の15,590人から1,900人あまり減っています。分野別では理学が37.2%、保健が16.2%、農学が8.3%です。生命科学だけを取り出した数字はありませんが、この三つの分野にまたがって相当数がいると見てよさそうです。
この調査でまず目につくのは年齢です。平均は38.0歳、中央値は35歳でした。ポスドクという言葉から、博士号を取って数年の若手を想像する人は多いと思います。しかし、実際の中央値は30代の半ばにあり、平均はそれより3歳高い。40代、50代のポスドクが平均を押し上げていることになります。
任期は短く、3年未満の人が77.0%です。3年というのは、遺伝子改変マウスを一系統立ち上げて、繁殖させ、表現型を一通り見るだけで過ぎてしまうこともある長さです。論文にまとめる時間は、次の職場で探すことになります。
翌年度の4月にどうなっていたかも調べられています。ポスドクを続けていた人が67.9%、大学教員やその他の研究開発職に移った人は17.2%でした。2018年度調査の13.0%からは上がっていますが、次の段階に進むのは1年におよそ6人に1人という構図は変わっていません。給与は月額35万円以上40万円未満の層が最も多い一方、20万円未満の人が15.2%います。
任期を重ねた先に何があるかについては、別の調査があります。有期雇用の研究者は、通算の契約期間が10年を超えると、期間の定めのない雇用への転換を申し込めます。2013年4月に施行された改正労働契約法にもとづく仕組みで、最初の対象者が10年を迎えたのは2023年でした。文部科学省が2025年12月に公表した調査によると、2024年度中に契約を更新すればこの権利が生じるはずだった人のうち、新たに無期の契約を結んだ人は598人で8.7%、有期契約のまま更新した人が5,355人で77.6%、契約が終了した人が710人で10.3%でした。契約が終了した710人のうち455人については、その後どうしているかを、所属していた機関が把握していません。文部科学省は同じ通知の中で、権利が生じる前にいったん契約を切り、期間を空けて雇い直す運用があるという指摘にも触れ、望ましくないとしています。
この状況を、下の世代は見ています。博士課程の入学者は2003年度の18,232人をピークに減り、2016年度には14,972人になりました。社会人と留学生を除いた入学者に限ると、2003年度の約1.2万人から、2022年度には約5千人にまで減っています。修士課程を終えてそのまま博士課程に進む人が、20年で半分以下になったということです。科学技術振興機構は、進学が減っている理由として、在学中の生活の見通しが立たないことと、修了後の就職への不安を挙げています。冒頭にご紹介した例え話の修士2年の学生の迷いは、公表されている数字と合っています。
米国では、同じ問題が別の形で現れています。全米科学財団の調査によると、生物・生物医学分野のポスドクは2018年から2022年のあいだに9%減りました。2022年に生命科学の博士号を取った人のうち、ポスドクに進む人の割合は、少なくとも1995年以降で最も低くなっています。理由はわかりやすく、企業に就職する博士の見込み年収が11万ドル、ポスドクに進む人は5.4万ドルだからです。
日本ではポスドクの行き先が足りず、米国ではポスドクになる人が減っています。日本でも人数そのものは減り始めているので、現れ方が正反対というわけではありません。根は共通しています。大学は研究の実働を任期つきの若手に頼っており、その先にある常勤の席は、実働に必要な人数よりずっと少ない。
ここで問いを当ててみます。この問題は、作業が速くなれば軽くなるでしょうか。
私は、軽くならないと考えています。席の数を決めているのは、大学の人件費と、研究費で何人雇えるかです。ポスドクの実験が2倍の速さで進んでも、助教の公募は増えません。
気になるのはむしろ逆の方向です。ポスドクが担ってきた仕事のうち、文献の整理、データの解析、論文の下書きは、前回見たとおり、AIが先に入ってきた領域にあたります。ここが安くなったとき、PI(研究室を主宰する研究者)は同じ人数を雇い続けるのか、それとも人を減らして試薬を買うのか。手を動かす実験のほうは当面残るとしても、一人のポスドクに求められる仕事の中身は変わっていくはずです。この点は、第7回でアカデミアの人員構成を扱うときと、第9回で大学院教育を扱うときに、改めて検討します。
◾️お金と時間
次は研究費です。
日本の研究者にとって最も身近な競争的研究費は科研費です。2026年度は、主な種目の合計で95,140件の新規応募があり、25,430件が採択されました。採択率は26.7%です。応募は前年度より4.8%増え、採択率は0.2ポイント下がりました。最も応募の多い基盤研究(C)は、47,969件の応募に対して採択が12,419件、採択率は25.9%で、前年度の27.4%から下がっています。博士号を取って8年未満の人が対象の若手研究は40.1%でした。
全体で見れば、4本出して1本が通る計算です。これを高いと見るか低いと見るかは立場によりますが、申請する側から見れば、書いた申請書の4本に3本は採択されないということです。
科研費がこれほど切実になったのには経緯があります。国立大学が法人化された2004年度、国から配られる運営費交付金は1兆2,415億円でした。2025年度は1兆784億円で、13%少なくなっています。2026年度の予算案では1兆971億円と、9年ぶりに増額されました。それでも、研究室に黙っていても届くお金が細り、競争して取ってくるお金の比重が増えたという20年間の流れは変わっていません。ポスドクの雇用財源を見ても、大学や研究機関の基盤的な経費で雇われている人は32.6%で、残りの多くは競争的研究費や外部資金です。任期が短い理由の一つはここにあります。3年の研究費で雇える人の任期は、3年を超えません。
米国の事情にも触れておきます。米国立衛生研究所(NIH)の主力の研究費であるR01を獲得した研究者は、2024年度の7,720人から2025年度は5,885人に減りました。学位を取って10年以内の研究者の獲得率は26%から19%に下がっています。複数年の研究費を初年度に一括で計上する方式に変えたことが一因だと、NIHの幹部が認めています。これは政策の変更が生んだ急な落ち込みで、長年の宿題とは性質が違います。ただ、留学先やポスドク先として米国を考えている人には直接関わる数字なので、挙げておきます。
では、研究者はこの競争にどれだけの時間を使っているのでしょうか。
文部科学省は5年ごとに、大学教員が勤務時間を何に使っているかを調べています。研究に充てる時間の割合は、2002年度の調査では46.5%でした。2018年度は32.9%、2023年度は32.2%です。教員の数は171,094人から196,305人に増えましたが、研究時間で換算した実質的な研究者数は79,604人から63,300人に減りました。人は増え、研究は減ったことになります。分野別に見ると、理学は48.0%を保っている一方、医学部などを含む保健は28.8%で、診療などに21.9%が使われています。
ここまでは、多くの研究者の実感どおりだと思います。意外なのはその先です。
この調査は2023年度に初めて、研究費の申請と報告にかかった時間を尋ねました。過去5年間に教員1人が申請した件数は平均4.5件、費やした時間は合計で99時間でした。採択後の報告は37時間です。1年あたりに直すと、申請と報告を合わせて27時間ほどになります。年間の勤務時間に比べれば、わずかです。
同じ調査で、研究時間の制約として教員が最も多く挙げたのは、教授会などの大学運営の業務でした。次が教育の負担です。報道によれば、教育に充てる時間の割合は2002年度の23.7%から30.1%に増えています。
前回の結びで、私は「申請書に時間を取られること」をこの業界の問題の一つに挙げました。この数字を前にすると、少し言い直す必要があります。全教員の平均で見るかぎり、研究時間を削っているのは主に会議と講義と学生の指導で、医学系ではそこに診療が加わります。申請書は、その列のずっと後ろにいます。
ただし、平均は実態の一部を隠します。この数字は、申請しない教員も含めた平均です。科研費の資料によれば、国立大学では登録された研究者の2人に1人が新規に応募していますが、私立大学では4人に1人です。大型の研究費をいくつも抱えるPIに限れば、数字は違ってくるはずです。金額の大きい研究費では、手間の桁も変わります。オーストラリアの医学研究費について2012年に行われた調査では、申請1件の準備に、関わった研究者の合計で平均34労働日がかかっていました。その年の申請は3,727件で、全体では研究者550人が1年間働いたのと同じ時間になります。採択率は21%でした。そして、準備に長く時間をかけた申請ほど採択されやすい、という関係は見られませんでした。
文部科学省の調査に戻ると、もう一つ目を引く結果があります。研究を進めるうえでの人材面の制約を尋ねると、最も多かった答えは修士・博士課程の学生の不足で、次がポスドクの不足でした。前の節で見たとおり、ポスドクには行き先がありません。そのポスドクが足りないとPIは答えている。矛盾して聞こえますが、雇うお金のある研究室が限られていると考えれば、両方とも成り立ちます。
さて、問いです。この問題は、作業が速くなれば軽くなるでしょうか。
申請書を書く作業そのものは、すでに速くなり始めています。問題はその先です。採択される件数は予算で決まっていて、申請書がどれだけ速く書けても増えません。全員の申請書が同じように整えば、差がつくのは別のところになります。書くのが楽になれば応募は増え、審査する側の読む量も増えます。2026年度の科研費で応募が4.8%増えたことにAIが関係しているかどうかは、私にはわかりません。ただ、応募が増えれば率は下がるという算術は、この先も変わりません。
すでに起きていることもあります。ノースウェスタン大学のグループは、2021年から2025年にNIHと全米科学財団に出された申請書を分析し、大規模言語モデル(文章生成AIの中身にあたる技術。以下LLM)の関与が2023年から急に増えたことを示しました。NIHでは、LLMの関与が強い申請は採択される確率が4ポイント高く、同時に、すでに採択された研究に内容が似る傾向がありました。全米科学財団では、採択との関係は見られませんでした。対象は米国の二つの大学から出された申請書と公開された採択課題で、因果関係を示した研究ではありません。それでも、申請書をうまく書けるようになることと、研究費の配分がよくなることが別の話であることは、この結果から読み取れます。
研究時間についても同じです。申請書が半分の時間で書けるようになっても、取り戻せるのは平均で年に10時間ほどです。会議と教育に使っている時間には遠く及びません。AIが講義の準備や採点や学内の書類をどこまで軽くするかのほうが、研究時間にとっては大きな変数になります。申請書と査読は第4回で、教員の時間の使い方は第7回で扱います。
◾️読む人が足りない
三つめは査読です。
まず、読まれるべき論文の数が増えています。ScopusとWeb of Scienceに収録された論文は、2016年の約190万本から2022年には約280万本になりました。6年で47%の増加です。この分析を行ったグループは、研究者の数はそれほど増えていないので一人あたりの負担が大きく増えたと指摘し、一部の出版社が査読期間の短い特集号を大量に組んだことを、増加の要因に挙げています。ChatGPTが公開されたのは2022年の終わりですから、これはAIより前の話です。
次に、読む側です。論文の投稿・査読システムScholarOneを運営するSilverchairが2026年6月に出した報告書によると、同システムに登録された査読者は2018年から2025年のあいだに54%増えました。ところが査読の依頼はその間に2倍以上になり、依頼を引き受ける割合は2018年の43%から2024年には22%に下がりました。査読を1件確保するために必要な依頼は、2018年の2.3件から4.5件になっています。査読者を2人そろえるには、平均で9通の依頼が要る計算です。システムを提供する企業が自社のデータで出した数字なので、その点は割り引いて読む必要があります。
査読者の数は増えているのに、引き受ける人の割合が減っている。足りないのは人数というより、一人ひとりの余力です。査読は無報酬で、業績として数えられることもほとんどありません。前の節で見たとおり、研究に使える時間は勤務時間の3分の1を切っています。その中から、他人の論文を丁寧に読む数時間を出すことになります。査読の依頼メールは、申請書の締切の週であっても構わず送られてきます。
著者の側から見ると、これは待ち時間として現れます。査読者が見つからないまま数週間が過ぎ、投稿システムの画面には「査読者選定中」の表示が出たままになります。
問いを当てます。査読は、作業が速くなれば軽くなるでしょうか。
これは、五つの中でいちばん判断が分かれるところです。査読は読んで書く作業であり、AIが得意とする種類の作業に見えます。査読に関わる作業でAIを使う査読者は、すでに少なくありません。数字は第4回で見ます。一方で、前回書いたとおり、未発表の原稿をAIに入力することを禁じる学術誌があり、任せてよいという合意はまだありません。
私の見立てを書いておきます。査読の負担のうち、英語を直す、書式の不備を拾う、引用文献が実在するかを照合する、といった部分は、作業の速さで軽くなります。軽くならないのは、この実験でこの結論が言えるのかを判断する部分です。そしてその判断の対象は、書くことが安くなった分だけ増えていきます。前回、書く工程だけが速くなり、確かめる工程に負荷が寄っていると書きました。査読は、その負荷が最初に届く場所です。第4回と第6回で続きを扱います。
◾️再現できない
四つめは再現性です。
論文に書かれた実験を別の人がやり直すと、同じ結果にならないことがある。研究者のあいだではよく知られた話ですが、どのくらいの頻度で起きているのかを正面から測った試みは多くありません。しかし、いくつかはあります。ここでは、大がかりなものを二つ紹介します。
一つは、米国のCenter for Open Scienceなどが行った、がん生物学の再現プロジェクトです。2010年から2012年に出た影響力の大きい論文53本から193の実験を選び、追試する計画でした。8年かけて実際に追試できたのは、23本の論文の50実験です。結果は2021年12月にeLife誌で公表されました。元の論文で効果があるとされた実験について、追試で得られた効果の大きさは、中央値で元の実験より85%小さくなっていました。
もう一つはブラジルの取り組みです。国内の56の研究室が参加し、ブラジルの研究機関から出た論文の実験を、細胞の生存率を測るMTTアッセイ、RT-PCR、マウスの不安行動を見る高架式十字迷路という、ありふれた三つの手法に絞って追試しました。143件の追試が行われ、そのうち独立した委員会が有効と認めたのは、47の実験についての97件です。再現できたと言える割合は、判定の基準によって20%から44%でした。元の実験の効果の大きさは、追試に比べて中央値で60%大きかったといいます。7年がかりで、費用はおよそ24万ドルだったと伝えられています。
二つのプロジェクトの再現率そのものは、解釈に注意が要ります。追試の側の失敗も含まれますし、選ばれた論文が全体を代表しているとも限りません。私がこの二つから読み取りたいのは、別の点です。
がん生物学のプロジェクトでは、計画した実験のおよそ4分の3が、追試を終えられませんでした。論文の方法の欄だけでは実験を組み立てられず、元の著者や、すでに研究室を去った担当者を探して細部を尋ねる必要があり、それができなければ諦めるしかなかったためです。ブラジルのプロジェクトでは、143件のうち46件が有効と認められませんでした。理由として挙げられているのは、プロトコルからの逸脱や記録の不備です。再現性の問題として語られているものの相当部分は、何をどうやったのかが書き残されていないことから生じています。研究不正はこれとは別の問題で、第6回で扱います。
この先は、ウェットラボにいた人なら見当がつくと思います。培地のロット。細胞の継代数。マウスを触る時間帯。抗体をどの会社のどの製品番号で買ったか。実験の成否を左右するのに論文には書かれない事柄は、たいてい実験ノートの余白か、担当者の頭の中にあります。そしてその担当者は、任期が終わると研究室を去ります。最初の節の話は、ここにつながっています。
問いを当てます。再現性は、作業が速くなれば軽くなるでしょうか。
半分は軽くなる、というのが私の答えです。実験の条件を漏らさず記録し、プロトコルを他人が読める形に整える作業は、手間がかかるわりに評価されないので省かれてきた、と私は見ています。手間が減れば、省かれる理由も減ります。口頭で残した手順を文章に起こす、機器のログから条件を拾う、といった使い方は、いまの技術の延長にあります。
残りの半分は軽くなりません。追試は新しい発見として評価されにくく、追試に研究費がつくことも、追試で職が得られることも稀です。効果が大きく見える結果ほど論文になりやすいという事情も変わりません。二つのプロジェクトで元の実験の効果が追試より大きかったことは、たまたま大きく出た結果が選ばれて論文になっている可能性を示しています。これは評価の仕組みの問題で、記録が速く取れるようになっても動きません。手技と記録については第5回で、評価と不正については第6回で扱います。
◾️ヒトで確かめる
最後は創薬です。大学の研究室からは少し遠く見えますが、生命科学の博士の就職先としても、基礎研究の出口としても、産業の側の事情は無関係ではありません。
医薬品の情報企業Citelineが2014年から2023年のデータで計算したところ、第I相試験に入った薬の候補が承認に至る確率は6.7%でした。15の候補のうち14が、ヒトに投与されたあとで脱落します。段階ごとに見ると、第I相を通過するのが47%、第II相が28%、第III相が55%です。三つを掛けると約7%で、その先に承認審査があります。患者で有効性を確かめ始める第II相が、最も狭い関門になっています。
費用も上がっています。Deloitteが大手20社を対象に毎年行っている分析では、新薬1つを世に出すための研究開発費は、2013年の13億ドルから2024年には22.3億ドルになりました。第I相の開始から承認申請までにかかる期間は100か月を超えています。
問いを当てます。創薬は、作業が速くなれば軽くなるでしょうか。
候補を見つけるまでの作業は、速くなります。これは前回も触れました。IQVIAが2026年5月に出した報告書は、AIを使って開発を進めている新興企業の候補について、直近3年間の第I相の通過率が75%だったとしています。第I相で見ているのは主に安全性と体内での動きで、ここは化合物の設計で改善できる余地が大きい領域です。
難所はその先にあります。第II相で問われるのは、標的とした分子に薬が届いたとき、病気が実際に良くなるかどうかです。良くならなければ、間違っていたのは化合物ではなく、病気の理解のほうだったことになります。これは、化合物をどれだけ速く上手に作っても解決しません。そして、標的を選ぶ根拠になるのは、前の節で見た、再現できるかどうかが確かでない基礎研究の論文です。二つの問題がどの程度つながっているかを示す数字を、私は持っていません。ただ、つながっていないと考えるほうが難しいと思っています。第II相の数字がAIで動くかどうかは、今後数年で結果が出始めます。第8回で扱います。
◾️残るもの
五つの問題に同じ問いを当ててきました。並べ直すと、答えは二つの群に分かれます。
作業が速くなれば軽くなるもの。申請書を書く手間、査読のうち形式を確かめる部分、実験の記録とプロトコルの整備、薬の候補を見つけるまでの工程。これらは実際に軽くなるでしょうし、一部はすでに軽くなっています。
速くなっても軽くならないもの。常勤の席の数、採択される研究費の件数、追試が評価されない仕組み、ヒトの体で効くかどうか。前の二つは配分の問題で、誰かが決めないかぎり変わりません。三つめは評価の問題です。最後の一つは生物学そのもので、確かめるには時間をかけて試すしかありません。
私は、この業界の宿題の重い部分は後者にあると考えています。そうだとすると、AIが作業を速くしたときにまず起きるのは、問題の解決より、競争の水準の上昇です。全員が申請書を速く書けるようになれば、申請書の本数が増えます。全員が論文を速く書けるようになれば、論文の本数が増えます。席と予算が同じなら、一人あたりの取り分は変わらず、読む側と確かめる側の仕事だけが増えます。
もっとも、これは作業の速さだけを考えた場合の話です。AIが実験そのものを担い、仮説を立て、確かめる工程まで速くするようになれば、軽くならない側に置いた問題のいくつかは位置が変わります。追試が安くなれば、追試をしない理由は減ります。そこまで行くのか、行くとすればいつごろなのか。それを見積もるには、AIという技術がどう進んできて、この先どう進みそうかを整理する必要があります。次回はそれを扱います。
◾️今回参考にした情報
・ポスドクの人数・年齢・任期・進路・給与・雇用財源:文部科学省/科学技術・学術政策研究所「ポストドクター等の雇用・進路に関する調査(2021年度実績)」 https://www.mext.go.jp/content/20240322-mxt_kiban03-000034677.pdf
・無期転換の状況:文部科学省「研究者・教員等の雇用に係る適切な対応について(依頼)」 https://www.mext.go.jp/content/20251224-mxt_kiban03-000046515_002.pdf
・社会人・留学生を除く入学者(約1.2万人→約0.5万人):文部科学省資料 https://www.mext.go.jp/content/20230822-mxt_koutou02-000031891_5.pdf
・博士進学が減っている理由:科学技術振興機構 https://www.jst.go.jp/jisedai/spring/support-doctoral/index.html
・米国のポスドク減少: https://ktvz.com/money/cnn-business-consumer/2024/04/01/us-scientists-are-leaving-academia-thats-bad-news-for-drug-companies/
・科研費の応募・採択:文部科学省「令和8年度科学研究費助成事業の配分について(第2回)」 https://www.mext.go.jp/a_menu/shinkou/hojyo/1422129_00001.html
・運営費交付金:2004年度からの推移 https://okumuralab.org/~okumura/python/univ_budget.html
・NIH:https://www.aonl.org/news/NIH-research-funding-grant-success-rates-fall-in-2025
・研究時間、申請・報告の時間、制約:文部科学省「令和5年度大学等におけるフルタイム換算データに関する調査(概要)」 https://www.mext.go.jp/content/20250418-mxt_chousei01-000040124.pdf
・教育時間23.7%→30.1%:https://newswitch.jp/p/42096
・申請書の準備時間:Herbert et al., BMJ Open 2013 https://bmjopen.bmj.com/content/3/5/e002800
・LLMと研究費申請:Qian et al., https://arxiv.org/abs/2601.15485v1
・論文数の増加:Hanson et al., Quantitative Science Studies 5(4), 2024 https://doi.org/10.1162/qss_a_00327
・査読依頼と承諾率:https://www.niso.org/niso-io/2026/06/new-report-highlights-trends-and-challenges-peer-review
・がん生物学の再現プロジェクト:https://www.statnews.com/2021/12/07/cancer-reproducibility-project-research/
・ブラジルの再現プロジェクト: https://elifesciences.org/reviewed-preprints/111001.pdf
・開発費と期間:https://www.biospace.com/business/pharma-r-d-returns-grow-again-but-deloitte-warns-progress-is-fragile
・AI活用企業の第I相通過率:https://www.iqvia.com/blogs/2026/05/iqvia-institutes-global-r-and-d-trends-2026-report-finds-credible-signal-on-ai-enabled-programs

