AIはバイオ研究者の生き方をどう変えるか
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第3回:三つの時計
◾️二枚のグラフ
生命科学の講義や学会の講演で、何度も映されてきたグラフがあります。米国立ヒトゲノム研究所(NHGRI)が公開している、ヒト1人分のゲノムを解読する費用の推移です。縦軸は対数で、線は2001年から右下がりに進み、2008年ごろに折れて急に落ちます。NHGRIの集計では、2006年に約1,400万ドルだった費用は、2015年の終わりには1,500ドルを下回りました。9年でおよそ1万分の1です。比較のために半導体の進歩を表すムーアの法則の線が引かれていて、費用の線がそれを置き去りにして落ちていくところが、このグラフの見せ場でした。
もう一枚は、AIの業界でこの1年半ほど、たびたび引用されているグラフです。米国の非営利の評価機関METRが2025年3月に発表したもので、横軸はAIモデルが公開された時期、縦軸はそのモデルがこなせる仕事の長さです。こちらも縦軸は対数で、点は右上がりにほぼ一直線に並びます。こなせる仕事の長さが、およそ7か月ごとに2倍になってきた、というのがその内容でした。
二枚はよく似ています。どちらも対数の軸の上の直線で、どちらも、見た人にこの線を先まで延ばしてみたい気持ちを起こさせます。縦軸が対数であることは、たいてい小さな字で書いてあります。
違うのは、一枚めについては、私たちがその後を知っていることです。解読の費用は実際に1万分の1になりました。次世代シーケンサーは研究室の日常の道具になり、RNA-seqは特別な実験ではなくなりました。一方、同じころに語られた、一人ひとりのゲノムにもとづく医療が当たり前になるという見通しは、がんや希少疾患の診断のように実現した部分と、まだ途中の部分に分かれています。装置の性能は予想より速く進み、それを使う側の変化は、領域ごとに別々の速さで進みました。
前回の終わりに、AIが確かめる工程まで速くするところへ行くのか、行くとすればいつごろか、という問いを残しました。今回はそれを見積もるための物差しを作ります。二枚めのグラフの線を、そのまま先へ延ばすことはしません。一枚めのグラフの経験にならって、進む速さの違うものを分けて見ます。私は三つに分けるのが使いやすいと考えています。画面の中でAIにできることの進み方、実験台の上で機械にできることの進み方、そして制度と生物そのものの進み方です。以下では、この三つを時計にたとえます。
◾️画面の中の時計
METRの指標は「時間地平」と呼ばれています。考え方は単純です。ソフトウェア開発などの課題を数多く用意し、それぞれについて、熟練した人間が解くのにかかる時間を測っておきます。同じ課題をAIに解かせ、成功率がちょうど50%になるあたりの課題の長さを、そのモデルの時間地平とします。数分で済む課題は解けるが数時間かかる課題は解けない、というモデルの実力を、人間の作業時間という目盛りで表す工夫です。
公開されている数字を並べます。2024年5月に出たモデルの時間地平は6分でした。2025年5月のモデルは1時間41分、2026年3月のモデルは5時間50分です。同年4月に限られた範囲で公開されたモデルの先行版は、5月の測定で「おそらく16時間以上」とされました。2年のあいだに、数分から、人間の勤務2日分を超えるところまで来たことになります。2026年1月に改訂された推計では、2023年以降に限ると、2倍になるのにかかる期間は約4.3か月に縮んでいます。
この数字を研究者の仕事に引きつけて読むには、いくつも注意が要ります。METR自身が、かなり丁寧に但し書きをつけています。
第一に、時間地平は、AIが自律して働き続けられる時間のことではありません。人間なら何時間かかる課題か、という難しさの目盛りです。第二に、成功率50%という基準は、半分は失敗するという意味です。成功率80%で測ると数字はずっと小さくなり、先ほどの先行版で3時間6分、2026年3月のモデルで1時間30分でした。実験にたとえると、2回に1回しかうまくいかないプロトコルと、5回に4回うまくいくプロトコルの違いです。後輩に渡せるのは後者です。
第三に、課題の種類が限られています。測っているのはソフトウェア開発、機械学習、サイバーセキュリティの課題で、指示が明確で、成否を自動で判定できるものです。METRは、現実の仕事の多くは前後の経緯や暗黙の了解に支えられていると断ったうえで、8時間の時間地平は、事情をよく知る専門家の8時間分の仕事ができるという意味ではないと説明しています。課題が雑然としているほどAIの成績が落ちることも報告されています。第四に、物差しのほうが足りなくなってきました。METRは、16時間を超える測定はいまの課題群では信頼できないとしており、公開ページの数字は2026年5月を最後に更新されていません。
これだけ但し書きがあっても、私はこのグラフを割り引きすぎないほうがよいと考えています。理由は二つあります。一つは、METRが科学的な推論や数学など別の領域のベンチマークを同じ方法で分析し、時間地平の絶対値は領域によって桁が違うものの、伸びる速さは似ていたと報告していることです。もう一つは、但し書きのほとんどが線の高さについてのもので、傾きについてのものは少ないことです。仮に、生命科学のデータ解析でいまAIに任せられる仕事の長さが、ソフトウェア開発の10分の1しかないとします。それでも同じ速さで伸びるなら、1年から2年で、いまのソフトウェア開発の水準に届きます。
もっとも、傾きが変わらない保証はありません。この時計を動かしているのは計算資源への投資です。ある格付け会社によれば、米国の大手IT企業の設備投資は2026年に7,000億ドル規模に達する見込みで、2022年の6倍にあたります。同社は、電力の不足が2027年まで能力の拡大を制約するとも見ています。資金と電力が続くかぎり時計は進み、どちらかが詰まれば遅れます。
画面の中の時計は、いまのところ月の単位で進んでいます。第1回で、AIが使われる場所を分けているのは、誤りを確かめる手間の大きさだと書きました。画面の中で完結し、結果をその場で確かめられる仕事については、任せられる長さがこの速さで伸びていくと見るのが、現時点でいちばん根拠のある見方です。バイオインフォマティクスの解析、文献の網羅的な調査、申請書や論文の下書きが、これにあたります。
◾️実験台の時計
二つめの時計は、実験台の上にあります。ここには二種類の問題が重なっています。実験について正しく考えられるかという問題と、実験を実際に行えるかという問題です。
前者から見ます。2025年に公表されたウイルス学の試験では、実験がうまくいかない場面を示して原因を答えさせたところ、当時の最も成績のよいモデルの正答率は43.8%でした。低く見えますが、同じ試験を受けた専門のウイルス学者の94%は、これより低い成績でした。質問に答える形式では、AIはすでに専門家と並ぶか、それ以上のところにいます。
ところが、実際の実験の記録から作った試験では様子が違います。研究用ソフトウェアを販売するある企業は2026年8月、現実に行われた数千件の実験をもとに、研究者が公開プロトコルをどう手直しして自分の研究室で動くようにしたかを拾い出し、それを課題にした自社ベンチマークを公開しました。最も成績のよいモデルで59.2%、次のモデルは47.1%でした。同社が挙げている失敗の型は、ウェットラボにいた人には見覚えのあるものです。測定値をそのまま結果とみなして較正を考えない。目に見える不純物があるのに試料を純粋なものとして扱う。手技のわずかな違いが実験を台なしにすることを見落とす。同社は、生物学を知っていることと生物学ができることは別だ、と書いています。製品を売る企業が自社で作った試験で、人間の専門家の成績は紹介記事に示されていないので、数字そのものは参考程度に読むべきです。それでも、何が足りないかの見当はつきます。論文に書かれない種類の知識です。前回、再現性の節で、実験の成否を左右する事柄は実験ノートの余白か担当者の頭の中にあると書きました。AIが学習してきたのは主に論文で、余白のほうはほとんど読んでいません。
この差は、データが集まれば縮まる種類のものだと私は見ています。失敗した実験の記録を大量に持つ企業が、それをAIの訓練に使い始めているからです。ただ、縮まる速さは画面の中の時計より遅くなります。訓練の材料になる実験そのものを、誰かが時間をかけて行う必要があるためです。
後者、つまり実験を実際に行えるかに移ります。第1回で触れたCo-Scientistと、米国の非営利の研究機関が開発したRobinは、2026年5月にそろってNature誌に論文が掲載されました。Robinは仮説の生成と実験データの解析を自動で行い、緑内障の既存薬を、萎縮型の加齢黄斑変性の治療薬候補として提案しています。どちらも「AIが発見した」と紹介されることの多い成果ですが、試薬を混ぜ、細胞を培養し、測定したのは人間の研究者でした。検証された仮説の多くは、既知の薬の作用や経路を組み合わせ直したものだという指摘もあります。価値がないという意味ではありません。分業の線がどこに引かれているかを、正確に見ておく必要があるということです。
分業の結果は、すでに数字に表れています。米国の大手IT企業が大学などと科学者637人に行った調査では、過去2年のあいだに研究の律速段階が下流、つまり実験の実施やデータの取得の側に移ったと答えた人が43.5%いました。回答者はAIをよく使う人に偏っている可能性があり、報告書も科学者全体を代表する数字ではないと断っています。それでも、第1回で書いた、確かめる工程に負荷が寄っているという見立てとは同じ向きです。仮説は速く増え、それを確かめる手は増えていません。
では、その手を機械に置き換える動きはどこまで来ているでしょうか。道は二つあります。
一つは、研究室のほうを機械に合わせる道です。第1回で挙げた自律型のラボがこれにあたります。Nature誌は2026年4月の特集で、スウェーデンの大学にあるロボット実験装置を紹介しています。縦横5メートル、高さ3メートルで、置かれた部屋の床の半分以上を占めるそうです。開発者は、生物学の多くはいまも手工芸のように営まれていると述べています。この道はすでに通れますが、通行料がかかります。分注やプレートの測定のように標準化できる工程には向いていて、マウスの手術や、切片を一枚ずつ拾う作業には向いていません。
もう一つは、機械のほうを研究室に合わせる道、つまり人間用に作られた実験台でそのまま働ける汎用のロボットです。こちらの見通しを知る手がかりとして、ロボット研究でよく使われる試験があります。初めて入る家の台所で、道具と材料を探し、コーヒーを一杯淹れるというものです。AIの専門家を対象にした予測調査では、これを達成するロボットが現れる時期の中央値は2034年でした。2028年までに実現する確率は5%と見られています。知らない家でコーヒーを淹れられないロボットに、他人の研究室の冷凍庫から目当ての抗体を探してきてもらうのは、もう少し先になりそうです。
実験台の時計は、年の単位で進んでいます。そして、どの研究室でも同じ時刻を指しているわけではありません。資金のある組織では一つめの道がすでに開いていて、そうでない研究室は二つめの道を待つことになります。
◾️制度と生物の時計
三つめの時計は、いちばん遅く、部分的には止まっています。
まず生物の時間です。マウスの妊娠期間はおよそ3週間で、生まれた仔が次の世代を産めるようになるまでに、さらに2か月ほどかかります。培養細胞が増える速さも、オルガノイドが育つのにかかる週の数も、計算資源を増やしても変わりません。前回見たとおり、薬の候補が第I相試験に入ってから承認申請に至るまでには100か月を超える期間がかかっています。AIと自動化が縮められるのは、次にどの実験をするかを決める時間と、準備や解析の時間、そして同時に走らせる実験の数です。一回の実験が終わるまでの時間は、ほとんど縮みません。
この時間を短くするには、実験を速くするより、別の方法に置き換えるほうが現実的です。動物を使う試験の一部を、ヒトの細胞から作った系や計算機上の予測に替えていく動きは、規制当局の側でも始まっています。米国食品医薬品局は2025年4月、抗体医薬などの開発で動物試験の要件を段階的に減らしていく方針を公表しました。ただし、替えてよいと言えるためには、新しい方法の結果が従来の方法やヒトでの結果と合うことを確かめる必要があり、その確認には生物の時間がかかります。
次に制度の時間です。科研費の応募は年に一度で、研究期間は多くの種目で3年から5年です。博士課程は3年、ポスドクの任期は、前回の調査では77.0%が3年未満でした。学術誌の投稿規定も、大学のガイドラインも、年の単位でしか変わりません。AIの能力が半年で2倍になっても、それを使ってよいかどうかの決まりは、委員会が開かれる回数に応じて進みます。
前回、速くなっても軽くならないものとして、常勤の席の数と、採択される研究費の件数を挙げました。この二つは、遅い時計に乗っているというより、どの時計にも乗っていません。誰かが決めるまで動かないものです。この回の物差しでは「自然には動かない」という扱いにして、動かす決定が出たかどうかを別に見ることにします。
最後に普及の時間です。冒頭のシーケンサーに戻ります。次世代型の装置が市販され始めたのは2005年で、NHGRIが技術開発を後押しした計画が区切りを迎えたのは2014年でした。装置が現れてから、ゲノムの解読が誰でも外注できる日常の手段になるまで、およそ10年です。米国の大学の計算機科学者二人は2025年の論考で、電気やインターネットのような汎用技術でも、発明から社会への普及までには数十年かかったと指摘し、AIも同じ道をたどる「通常の技術」として見るべきだと論じました。
一方、速かった例もあります。タンパク質の構造を予測するAlphaFoldは、2021年にデータベースが公開され、2025年までに190か国以上の300万人を超える研究者に使われました。こちらは無料で、画面の中で完結し、予測が合っているかどうかを既知の構造と照らして確かめられます。シーケンサーは高価な装置で、試料の調製から解析まで研究室の作業を組み替える必要がありました。
二つを比べると、普及の速さを決めているのも、第1回で見たのと同じ事情だとわかります。確かめる手間が小さく、費用を誰が払うかが問題にならず、研究室の手順を変えなくて済むものは速く広がります。そうでないものは、技術ができあがってからも年単位の時間がかかります。
◾️予測する人たち
三つの時計を分けたところで、専門家がこの先をどう見ているかを確かめておきます。
米国のある非営利の研究機関は、AIの研究者、産業界の実務家、経済学者、政策研究者と、予測の成績が特に優れた人たちを継続的に調査しています。2026年4月から5月の調査では、人間の専門職の上位1割を、身体を使わないほぼすべての仕事で上回り、費用も人間の5倍以内に収まるAIを「汎用人工知能(AGI)」と定義し、それがいつ実現するかを尋ねました。専門家の中央値は、今世紀中に実現する確率が80%、実現する場合の時期は2050年というものです。ただし幅が広く、実現する場合に限れば、4分の1の確率で2039年までに、4分の3の確率で2065年までに、という分布でした。同じ調査で、2040年時点のAIの社会的な影響を尋ねると、電気に並ぶ「世紀の技術」になるという見方に平均35%、農業に並ぶ「千年の技術」に24%の確率が置かれています。
この調査には、予測というものの性質を示す場面がありました。先ほどのMETRの指標について、2026年の年末までに成功率80%の時間地平がどこまで伸びるかを尋ねたところ、専門家の中央値は3.4時間でした。調査を始めた時点の記録は1.5時間です。ところが調査期間の終わり近くに、3時間6分という測定結果が公表されました。年末の予測に、5月のうちにほぼ届いたことになります。画面の中の時計については、専門家の予測のほうが遅れる傾向が続いています。
両端の見方も見ておきます。速い側の代表は、2025年4月に公表された「AI 2027」というシナリオです。AIがAI自身の研究開発を担うようになり、進歩が自分で自分を加速して、2027年には人間を大きく超える知能が現れるという筋書きでした。著者たち自身は、その後のモデルの改訂で、プログラミングが完全に自動化される時期の中央値を2030年前後に置き直しています。遅い側の代表が、前の節で触れた「通常の技術」論です。
両者は2025年に共同で文章を出し、どこまでが合意でどこからが対立かを整理しています。合意点は二つあります。強いAGIが現れるまでは、AIは普及に時間のかかる通常の技術としてふるまう。そして、もし強いAGIが今後10年のうちに開発され使われるなら、世界は通常とは言えないものになる。対立しているのは、それが10年以内に起きる見込みがどのくらいあるかです。
この対立を三つの時計で言い直すと、こうなります。画面の中の時計が速く進んでいることは、どちらの側も認めています。争点は、その時計が自分自身を速め、さらに残りの二つの時計まで引っ張れるかどうかです。AIがAIの研究を自動化すれば、一つめの時計はさらに速くなります。その先でロボットの設計と製造まで速められれば二つめが動き、社会が制度を作り替えれば三つめが動きます。段が進むほど、根拠は薄くなります。
私自身は、基本の筋書きを「通常の技術」の側に置いています。生命科学では、二つめと三つめの時計が結果を決める場面が多いからです。ただ、加速の筋書きを起きないものとして扱えるほど、その確率を小さくは見積もっていません。専門家の中央的な見方でも、2039年までに実現する確率が2割ほどある計算です。10年先を考えるときには、こちらの筋書きも横に置いておく必要があります。
◾️物差し
ここまでの材料で、1年後、3年後、5年後、10年後の物差しを作ります。それぞれの時点で三つの時計がどこを指しているかを書き、どの程度確かな話なのかを添えます。次回以降は、主題ごとにこの物差しを当てていきます。
1年後、2027年秋です。画面の中では、人間なら丸一日かかる解析や調査を、一度の指示で任せられる場面が増えます。いまの伸びが半分の速さに落ちたとしても、ソフトウェアの課題では成功率80%で勤務1日分に届く計算なので、ほぼ確実と見ています。生命科学の解析で任せられる長さはそれより短いはずですが、数時間分の仕事を渡して結果を確かめる、という使い方は珍しくなくなります。意見が分かれるのは、渡した仕事の結果をどこまで確かめずに使えるかです。実験台は、いまとほとんど変わりません。自律型のラボの数は増えますが、大半の研究室では、同じ人が同じピペットを握っています。制度の側では、科研費の応募を一度はさむだけで、学術誌と大学のルール作りはまだ途中です。
3年後、2029年です。画面の中について、専門家の中央値は、人間が8時間かける課題を成功率80%でこなすAIが現れる時期を、2030年までと見ています。前の節で見たとおり、この種の予測は実際より遅れがちで、私は1年後の欄に書いたように、もっと早く届くと考えています。計算機の中で完結する研究、たとえば配列や構造の解析では、先端の研究室で、作業の大半をAIが行い、人間は問いを立てて結果を確かめるという分担が成り立っているでしょう。ここまでは、ほぼ確実だと私は考えています。それが普通の研究室にどこまで広がるかは意見が分かれるところで、能力より、費用を誰が払うかで決まります。実験台では、資金のある企業や拠点で、定型的なアッセイを自律型のラボが回すことが日常になります。すでに起きていることの延長です。普通の研究室に入ってくるのは、分注のような一部の工程にとどまります。汎用のロボットはまだ来ていません。論文に書かれない知識についてのAIの弱点は、小さくなっているが残っている、というのが私の推測です。制度の側では、いま採択された3年間の研究費が終わり、いま着任したポスドクの多くが任期を終えます。AIの利用についてのルールは一巡して文書になっているはずです。常勤の席の数と採択の件数は、動かす決定が出ていなければ、そのままです。
5年後、2031年です。ここから先は、意見が大きく分かれます。画面の中では、AIがAI自身の研究開発を自動化できたかどうかが、このころまでに見えてきます。起きていなければ、基本の筋書きがいっそう確からしくなります。起きていれば、10年後の見通しは書き直しです。実験台では、自律型のラボへの外注が、普通の研究室にとって、いまのシーケンスの受託解析のような選択肢になっているかどうかが分かれ目です。なっている可能性は十分にありますが、確実と言える材料はまだありません。生物の時間については、一つ答えが出ます。AIを使って見つけた薬の候補のうち、いま臨床試験の前半にあるものの第II相の結果が、このころまでに出そろいます。前回見たとおり、第II相は標的の選び方が正しかったかを問う関門です。ここの通過率が動いていれば、AIが病気の理解そのものを進めたことになり、三つめの時計の一部が動いた最初の証拠になります。
10年後、2036年です。ここは推測として読んでください。筋書きを二つ書きます。
基本の筋書きでは、画面の中の仕事は、ほとんどをAIが実行しています。実験は、自動化された拠点と、人が手を動かす研究室とが併存しています。汎用のロボットが研究室に入り始めるのが、ちょうどこのころです。いま第I相試験に入った薬の候補は、順調に進んだ場合で、承認申請を終えたころです。制度は一世代分だけ変わり、いまの大学院生がPI(研究室を主宰する研究者)になり始めています。研究のやり方はかなり変わっていますが、研究室という単位も、実験に時間がかかるという事情も残っています。
加速の筋書きでは、2030年前後にAI自身の研究開発が自動化され、その成果がロボットと実験の設計に波及します。実験台の時計が月の単位に近づき、仮説から検証までの一巡りが、いまとは比べられないほど短くなります。この場合でも、マウスの妊娠期間と治験の観察期間は残りますが、それらを別の方法に置き換える試みは、はるかに速く進むはずです。
私は前者を軸にして、後者の可能性を捨てずに考えるのがよいと判断しています。どちらの筋書きになるかは、3年後から5年後のあいだにかなり見分けがつくようになります。
この物差しは、書いたそばから古くなります。目盛りを自分で直すために見ておくとよい数字を挙げておきます。成功率80%の時間地平、ウェットラボの知識を問う試験の成績、自律型のラボを外から使うときの料金、AIを使って見つけた薬の第II相の通過率です。一つめが動けば画面の中の時計が、二つめと三つめが動けば実験台の時計が、最後の一つが動けば生物の時計が、進んだことになります。
次回は、この物差しを、読むこと、考えること、書くことに当てます。三つの時計のうち、いちばん速いものが支配している領域です。
◾️今回参考にした情報
・ゲノム解読の費用: https://www.genome.gov/about-genomics/fact-sheets/Sequencing-Human-Genome-cost
・METRの時間地平: https://metr.org/notes/2026-01-22-time-horizon-limitations/
・大手IT企業の設備投資と電力: https://www.datacenterdynamics.com/en/news/us-hyperscaler-capex-to-top-700bn-in-2026-investors-fear-overbuild-and-weak-returns-moodys/
・Götting, J. et al. Virology Capabilities Test. arXiv:2504.16137(2025年4月) https://arxiv.org/pdf/2504.16137v1
・Can LLMs work in the wet lab?: https://www.benchling.com/blog/can-llms-work-in-the-wet-lab
・Co-ScientistとRobin: https://clinlabint.com/?p=25331
・Scientific American https://scientificamerican.com/article/why-ai-is-speeding-up-scientific-research-but-not-lab-experiments
・自律型のラボの特集: https://media.nature.com/original/magazine-assets/d41586-026-00974-2/d41586-026-00974-2.pdf
・ロボットの予測: Forecasting Research Institute「LEAP」第7波 https://leap.forecastingresearch.org/reports/wave7
・動物試験の要件の見直し: https://www.fda.gov/news-events/press-announcements/fda-announces-plan-phase-out-animal-testing-requirement-monoclonal-antibodies-and-other-drugs
・NHGRIの技術開発計画と次世代型装置の市販: https://www.genome.gov/funded-programs-projects/1000-dollar-genome-program
・「通常の技術」論: https://www.technologyreview.com/2025/04/29/1115928/is-ai-normal/
・AlphaFoldの利用者数: https://deepmind.google/blog/alphafold-five-years-of-impact/
・AGIと時間地平の予測: https://forecastingresearch.substack.com/p/leap-wave-8-ai-timelines
・AI 2027: https://ai2027-tracker.com/predictions/metr-doubling/

