研究者の声:オピニオン



2025年10月5日更新

若者がバイオ系の実験を敬遠する理由と、その先にあるもの

近年、大学や研究機関でよく耳にする声があります。それは、「学生が実験室に来なくなった」「博士課程に進む人が減っている」「バイオ系の研究室に配属されても、すぐに辞めてしまう」というものです。こうした現象は一部の研究室に限らず、広く観察されているのではないでしょうか。皆様も聞いたことがありませんか?

特にウェットの実験、つまり細胞や動物、試薬を扱う実験に関しては、若者の敬遠傾向がより顕著です。私はサイエンスコミュニケーターとして、多くの学生や若手研究者と対話してきました。その中で見えてきたのは、単なる「怠け」や「根気のなさ」では説明できない、社会的・文化的な背景です。

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バイオ系の実験(ウェットの実験)は時間に縛られがちです。細胞培養は一度始めれば、休日も夜間もありません。マウスの実験は、動物の生活リズムに合わせて行う必要があります。「自由な働き方」が叫ばれる時代に、研究室に縛られる生活は、若者にとって魅力的には映らないのでしょう。

また、実験は失敗の連続です。一週間かけた細胞実験が、最後の段階でコンタミによって無駄になることもあります。努力が必ずしも成果に結びつかないのです。これは、「効率」を重視する現代の価値観とは相性が良くありません。実験の不確実性は若者にとっては忌避すべき事象です。さらに、長時間の立ち仕事、繰り返しのピペッティング、危険な薬品の取り扱いなどの身体的な負担も軽視できません。それに、成果が出ないことによる精神的ストレスも大きいのです。

しかも、キャリアに関する問題点も無視できません。BioMedサーカス.comの読者であれば説明する必要はありませんが、博士課程を修了しても安定した職が得られるとは限りません。ポスドクを転々とし、30代後半になっても定職につけない例はあちこちに転がっています。ネット世代の現代の若者は現実的です。「努力しても報われないかもしれない道」を避けるのは自然な選択です。

一方で、データサイエンスやAI、バイオインフォマティクスといった「ドライ」の分野は人気が高くなっています。その理由として、「成果が出やすい」「労働環境が柔軟」「産業界での需要が高い」といったことが挙げられるでしょう。同じ「バイオ」でも、ウェットよりドライに人材が流れるのは当然の流れだと思われます。「ワークライフバランス」「自己実現」「多様なキャリア」... これらの価値観が広がる中で、研究室に閉じこもる生活は「時代遅れ」と見なされがちなのも頷けます。

さらには、「研究室文化」というウェット・ラボに特有の問題もあります。バイオ系研究室は、伝統的に上下関係が強く固定されがちです。教授や先輩の指示に従うことが重視され、自由な発想が抑えられることもあります。研究室に入ったばかりの若者は、窮屈な思いをすることもあるでしょう。また、論文数やインパクトファクター、研究費の獲得など、数値で評価されるプレッシャーは、若者にとって重荷となります。

こういった背景は、過重労働やハラスメントといった社会問題に発展します。SNSで情報が共有される時代、「ブラック・ラボ」の悪評はすぐに広まってしまいます。結果として、ウェット実験およびバイオ系研究業界の悪いイメージが固定してきています。

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しかし、私はあえて強調したいのです。ウェットの実験には、他では得られない魅力がある、ということを。「細胞が顕微鏡下で分裂する瞬間の感動」「動物モデルで新しい治療法の可能性を見出す興奮」「自分の手で"生命現象"に触れる実感」。これらは、ドライの研究では得られない体験です。「手を動かす科学」の価値は今もなお失われていませんし、技術の発展により、その価値は昔よりも輝いています。

では、どうすれば若者を惹きつけられるのでしょうか?若者がバイオ研究の現場に魅力を感じられるようにするためには、まず労働環境の改善が欠かせません。細胞培養や動物実験といった作業は、どうしても時間に縛られがちです。しかし、自動化技術やシフト制の導入によって、研究者が四六時中研究室に張り付いていなくても実験が進む仕組みを整えることは可能です。休日や夜間にまで拘束される状況を減らし、適切に休暇を取れるようにすることは、研究を続けたいと考える若者にとって大きな安心材料になるでしょう。

また、キャリアパスの明確化も重要です。博士課程を修了しても将来が見えにくい現状では、優秀な人材ほど別の道を選んでしまいます。産業界との連携を強め、博士人材が企業や行政、教育など多様な場で活躍できることを示す必要があります。研究室に残ることだけが唯一の選択肢ではなく、社会のさまざまな領域で専門性を活かせるという見通しを持てれば、若者は安心して研究に打ち込めるのです。

さらに、研究室文化そのものの刷新も避けては通れません。従来のように上下関係が強く、教授や先輩の指示に従うだけの環境では、若者の自由な発想や主体性は育ちません。フラットに意見を交わせる場を設け、メンタルヘルスの支援体制を整えることが求められるのではないでしょうか。ハラスメント防止を徹底し、安心して研究に集中できる空気をつくることは不可欠です。

「労働環境の改善」「キャリアの見通し」「文化の刷新」。この三つが揃って初めて、若者は「自分もこの世界で挑戦してみたい」と思えるようになります。バイオ研究の未来を支えるためには、研究者個人の努力だけでなく、制度や社会全体の後押しが必要なのです。

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バイオ研究は、医療・環境・食糧など、人類の未来に直結します。AIやデータ解析が進んでも、「生命現象を扱う」実験が不必要になることはありません。若者が敬遠する現状を放置すれば、研究基盤そのものが弱体化します。ですが、環境を整えて魅力を伝えれば、この業界にも再び人材は集まるはずです。

私はサイエンスコミュニケーターとして、「科学は、机上のデータだけではない。手で触れ、目で確かめ、失敗を重ねる中でこそ、生命の本質に近づける」ということを敢えて主張したいと思っています。若者がいなくなる業界は衰退していってしまいます。ですが、バイオ研究を衰退させてしまうのは、人類の未来にとっても大きな損失です。その価値を若者が理解して自分もその道に進もうと思ってもらえるように、社会全体でこの問題を考えていく必要があると思います。


著者:山岡あかね(サイエンス・コミュニケーター)


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