研究者の声:オピニオン
Tweet2026年2月14日更新
「タイパ」がサイエンスをダメにする?
最近、サイエンス・コミュニケーターとして一般向けの講演や学生との対話の場で、妙な圧迫感を感じることが増えました。それは、「結局、何が言いたいんですか?」「それって何の役に立つんですか?」という、すぐに答えを知りたがる「回答への最短距離」というものに起因する圧力です。
現代社会を覆う「タイパ(タイムパフォーマンス)」という言葉を聞いたことがない人はもういないと思います。1.5倍速で動画を視聴し、本の要約サービスで内容を摂取し、ChatGPTに「3行でまとめて」と依頼する。効率を追い求めるこの姿勢は、ビジネスの世界では美徳かもしれませんが、「サイエンス」という活動においては猛毒となっているように感じます。
これまで私は、バイオ系研究業界に落とされる影の部分に着目したオピニオン記事を書いてきました。その根底に流れているのは、「合理化」という名前の波です。ですが、私たちが「無駄」として切り捨ててきた余白の中にこそ、実はサイエンスの真髄が隠されているのではないでしょうか。
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バイオ系の実験を経験した人なら誰しも、思い通りにいかない日々の連続に頭を悩ませたことがあるのではないでしょうか。朝から晩までピペットマンを握り、細胞を世話し、ようやく得られた結果が「ネガティブデータ」だったときの脱力感。タイパの観点からすれば、それは「最悪の1週間」です。費やした時間と試薬代というコストに対し、得られた「成果」がゼロに見えるからです。
しかし、サイエンスの歴史を紐解けば、世界を変えた発見の多くは、この「無駄な時間」の後に訪れています。有名なペニシリンの発見も、実験ミスによるコンタミを「失敗」としてゴミ箱に捨てなかったことから始まりました。もし当時のアレクサンダー・フレミングが、現代的な「効率重視のPI」のラボで実験をしていたら、「余計な観察などせずに、次の実験を急げ」と叱責されていたかもしれません。
効率化は、既知のルートを速く走るためには有効です。しかし、未知の領域に足を踏み入れるとき、最短ルートなど誰にも分かりません。むしろ、道に迷い、足を取られ、泥だらけになって歩き回る「遠回り」そのものが、発見への近道となりうるのです。
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研究者をやる傍ら、私はサイエンス・コミュニケーターとしても活動しています。この世界でも、タイパの波は押し寄せています。「難しいことを、小学生でもわかるように1分で簡潔に説明してほしい」そんな依頼を受けるたび、私は心のどこかで罪悪感を感じます。
科学的な事象には必ず、「ただし、○○という条件下では」という注釈や、まだ解明されていないグレーゾーンが存在します。その曖昧さこそが誠実さであり、科学の醍醐味です。しかし、タイパを重視する聴衆は、その「グラデーション」を嫌います。白か黒か、YESかNOか。バズるための強い言葉、断定的な結論。そういうはっきりしたプレゼンを希望します。しかし、その要望に応えすぎると、サイエンスは単なる「豆知識」や「エンタメ」に成り下がります。
本来、サイエンス・コミュニケーションの役割は、答えを提示することではなく、共に「問い」を深めることにあるはずです。「なぜだろう?」「そんなはずはない」という、脳が汗をかくような思考のプロセス。そこには「速さ」も「効率」もありません。ただ、知的好奇心という名の心地よい停滞があるだけです。
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かつて私は、若者がバイオを敬遠する理由として「拘束時間の長さと報われなさ」を挙げたことがあります。今の若者は、かつての世代以上に「自分の時間の価値」をシビアに見積もっています。彼らに「昔は寝ずに実験したもんだ」という精神論を説くのは、「私は老害です」と宣伝しているようなものです。
サイエンスの現場にいる私たちが、若い人たちや一般の人たちに今すべきなのは、無駄な作業を強制したり、サイエンスの世界とは切り離せない曖昧な部分を説くことではなく、「無駄(に見える試行錯誤)」が許容される心理的・制度的安全圏を構築し、本当の意味でのサイエンスの楽しさを伝えることです。
今の若手研究者は、数年単位の有期雇用の中で、目に見える成果(論文数やインパクトファクター)を出すことを強要されています。これではタイパを意識せざるを得ません。ハイリスク・ハイリターンな挑戦よりも、手堅く「論文になりそうな」小さなテーマを量産する。この構造こそが、日本のサイエンスの活力を奪っている真犯人ではないでしょうか。
実験の自動化やAIの導入は、こうした「作業としての時間」を削減してくれる救世主です。しかし、そこで空いた時間を、さらに多くの「手堅い論文執筆」に充てるのであれば、事態は悪化するだけです。空いた時間で、かつてのラボにあったような「くだらない雑談」や「突拍子もない空想」を復活させること。それこそが、本来のDX(デジタルトランスフォーメーション)の目的であるべきです。
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かつて「スローフード」という運動がありました。ファストフードの画一的な味と速度に対し、地域の食材を使い、時間をかけて食を楽しむ文化を取り戻そうという呼びかけです。
いま、私たちが求めているのは「スロー・サイエンス」なのかもしれません。それは、研究を遅らせることではなく、研究者の心の中に「結論を急がない贅沢」を取り戻すことです。一見、社会の役に立たなそうな研究、すぐには成果が出ないプロジェクト。それらを「面白そうだね」と許容できる社会の度量。
最短ルートを外れたところにしか、新しい景色は見えません。タイパの波に飲み込まれ、私たちの好奇心まで「要約」されてしまう前に、私たちはサイエンスという名の、世界で最も贅沢な「遠回り」、を楽しみ続ける権利をもっと主張していくべきなのです。
著者:山岡あかね(サイエンス・コミュニケーター)

