研究者の声:オピニオン



2026年8月29日更新

捕食ジャーナルは本当に『悪』なのか

現代の学術コミュニケーション(学術流通)は大きな変化の途上にある。

2000年代以降の、印刷媒体からデジタル・オンラインへの移行とオープンアクセス(OA)運動の広がりは、知識をより多くの人に届けるという目標のもとで進められてきた。その一方で急速に増加し、学術界で強い批判の対象となってきたのが、いわゆる「捕食ジャーナル」あるいは「粗悪学術誌」と呼ばれる出版事業体である。

2010年代初頭に「捕食的オープンアクセス出版社のリスト」が公開されて以降、学術コミュニティの対応はおおむね一貫していた。それは、捕食ジャーナルを「科学の健全性を損なうもの」「研究者から金銭を得るための悪質な事業」とみなし、ブラックリストの作成やガイドラインの策定を通じて市場から排除しようとするアプローチである。しかし、こうした一面的な非難だけに基づく議論は、現代の学術出版システムが抱える構造的な課題を見えにくくしてしまう可能性がある。どのような社会現象や経済活動であっても、市場において急速に拡大する背景には、単なる悪意や詐欺という説明だけでは片づけられない、構造的な要因が存在することが多い。

捕食ジャーナルが、現代のアカデミアが抱える制度的な機能不全に対する市場の応答であるとすれば、それを単純に「悪」として切り捨てるだけのアプローチは、問題の解決には繋がらない。むしろ、学術コミュニケーションが今後どう変化していくべきかという議論の手がかりを見落とすことになる。

本記事の目的は、捕食ジャーナルに対する従来の排斥論から一度距離を置き、次の三つの観点から捕食ジャーナルの存在意義を検討することである:(1)現代のオープンアクセス市場における需要と供給の経済合理性、(2)既存のピアレビュー制度が抱える限界、(3)プレプリントに代表されるオープンサイエンスの潮流との構造的な類似性

今我々が問うべきは「どうすれば粗悪誌を排除できるか」ではなく、「なぜ粗悪誌が必要とされる社会構造が生まれたのか」、そして「その現象は学術評価のあり方についてどのような示唆を与えているか」であろう。

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捕食ジャーナル現象を理解するための出発点は、倫理的な評価をいったん脇に置き、学術出版を一つの経済市場として観察することにある。捕食ジャーナルが短期間で拡大した背景には、需要と供給の不均衡という、比較的単純な経済学の原理がある。

現代のアカデミアにおいて、研究者に課される評価のプレッシャーは強まる一方である。「Publish or Perish」という言葉に象徴されるように、大学や研究機関における雇用・任期更新・昇進・研究費の獲得は、いずれも「どれだけ論文を出版したか」という定量的な指標に大きく依存している。特に、キャリア初期の若手研究者やポスドク、任期付きの研究職にある者や、学位取得の要件として査読付き論文の公表を課されている大学院生にとって、論文出版は業績づくり以上の意味を持ち、研究者としての立場そのものに直結する切実な課題である。

一方で、こうした需要を受け止めるべき伝統的な学術誌の受け入れ容量は、投稿数の増加に対して十分ではない。世界的な研究者人口の増加、とりわけ新興国における研究活動の拡大により、投稿数は急増した。これに対して伝統的な学会誌や大手出版社のジャーナルは、限られた掲載枠と高いリジェクト率(80〜90%を超えることも珍しくない)を維持することで、自らの評価や権威を保とうとする。この需給の不均衡が、公表の場を得られない多数の研究者、いわば「出版難民」を生み出したのである。

また、既存の主要誌が抱えるもう一つの構造的な問題は、査読プロセスの長期化である。投稿から最初の査読結果が返ってくるまでに数ヶ月、修正を経て最終的な採択・出版に至るまでに1年から2年を要することは珍しくない。ある雑誌でリジェクトされれば、著者は体裁を整え直して別の雑誌に再投稿する必要があり、このプロセスが繰り返されることで、一つの研究成果が公表されるまでに数年を要する場合がある。

この遅延がもたらす損失は小さくない。進展の早い分野において論文が年単位で滞留することは、知識の共有を遅らせるだけでなく、研究者のキャリア形成にも大きな影響を与える。とりわけ、数年単位の任期の中で成果を出す必要がある若手研究者にとって、1年以上の査読待機期間は現実的に大きな負担となる。

こうした構造的な制約に対して、市場の自律的な反応として登場したのが、いわゆる捕食ジャーナルと呼ばれる形態である。捕食ジャーナルが提示する価値は明確で、「迅速な出版」「高い採択率」「オープンアクセスによる即時の公開」という点に集約される。これらは、既存のシステムから外れ、キャリア上の不安を抱える研究者にとって、一つの受け皿として機能している面がある。投稿された論文を滞留させることなく市場に出し、論文としての体裁と可視性を与えるという機能は、経済合理性の観点から見れば、目詰まりした学術流通における一種の緩衝装置として理解できる。需要が確かに存在する以上、それに応える仕組みが生まれ、拡大していくのは市場経済としては自然な流れである。そこに「論文掲載料(APC)」という名の手数料が発生すること自体は、迅速な公表という対価に対するものである以上、不自然なことではない。これを単に「騙す業者」と「騙される被害者」という図式だけで説明することは、学術市場に存在する需給の歪みという構造的な要因を見落とすことにつながりかねない。

ここでさらに検討すべきは、捕食ジャーナルに投稿する研究者の側の意思決定である。従来の議論では、投稿者は「知識不足によって騙された被害者」として描かれることが多いが、実際には、限られた時間と資源の中で、あえて掲載の速さと確実性を優先するという合理的な選択を行っている研究者も一定数存在すると考えられる。任期満了までの期限が迫っている研究者にとって、1年以上の査読を経て一流誌に掲載される可能性と、数週間で確実に業績として計上できる論文を得ることを比較すれば、多少の出費がかかったとしても、後者を選ぶことは必ずしも非合理とは言えない。この意味で、捕食ジャーナルへの投稿は、情報の非対称性による被害というより、制約下における一つの戦略的判断として捉え直す余地がある。

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捕食ジャーナルに対する最も強い批判の根拠は、「これらの雑誌は査読を実質的に行っていない、あるいは極めて粗雑にしか行っていないため、質の低い研究や捏造・改ざんを含む論文が容易に公表され、科学的知見の信頼性を損なう」という論理である。この批判は、科学的真理を守るという観点から一見正当性を持つように見える。しかし、詳しく検討すると、この主張の背景には「事前査読は完璧である」という前提と、それに基づく二重基準が存在することがわかる。

「査読をきちんと行わないから捕食ジャーナルは問題である」という論理の裏には、「厳格な査読を行っている一流誌であれば論文の真実性と品質が担保されている」という暗黙の前提がある。しかし、この前提は現代の科学史において必ずしも支持されていない。インパクトファクターの高い一流誌においても、後にデータの捏造や改ざん、再現不能な結果であることが判明し、撤回に至った事例は少なからず存在する。よく知られているように、STAP事件も『Nature』に掲載された論文が発端となった。そもそも、2〜3名の専門家がボランティアとして行う査読のプロセスで、複数のデータの不整合性や意図的な捏造を見抜けるとは言い難い。査読は本来、論理的一貫性や手法の妥当性を確認する簡易なスクリーニングであり、研究の真実性を保証する絶対的な検閲機能ではない。

以上を踏まえると、査読が不十分であるために不備のある論文が混入するという現象は、捕食ジャーナルに固有の問題というより、ピアレビュー(“ピア:研究の仲間”が“レビュー:評価”する)という制度そのものが本来的に抱える限界であると理解できる。一流誌でさえ防ぎきれない不備を、捕食ジャーナルに対してのみ強く問題視することは、一種の二重基準といえる。

では、なぜ学術界は捕食ジャーナルの査読の粗雑さに対して、これほど強い懸念を示すのだろうか。その一因は、学術コミュニティ自体が「どの雑誌に掲載されたかによって論文の価値を判断する」という、いわゆる「コンテナ(容器)評価」に長年依存してきたことにある。「『Nature』に載った論文だから信頼できる」「無名の雑誌に載った論文だから価値が低い」という判断の仕方は、雑誌のブランドに論文の質の判定を委ねる姿勢であり、これ自体が学術評価における一つの脆弱性である。ブランドを持たない捕食ジャーナルが査読済みという体裁を装うと、この仕組み全体への信頼が揺らぐように感じられるのは、こうした構造に起因すると考えられる。

捕食ジャーナルの台頭は、結果としてこのコンテナ評価の限界を浮き彫りにしたとも言える。一流誌であれ捕食誌であれ、あるいはプレプリントであれ、研究成果の価値は、読者である研究者自身がデータ・手法・論理を批判的に検討することによってのみ判断されるべきものである。捕食ジャーナルの存在は、研究者に対して、自ら論文の質を見極めるという本来の科学的態度を再認識させる一つのきっかけになり得る。

従来の査読制度は、いわば専門家コミュニティの「性善説(査読者は誠実に評価を行い、著者は正直にデータを提示するという前提)」の上に成り立ってきた。しかし、撤回論文の増加や研究不正の発覚が示すように、この前提は必ずしも現実に即していない。捕食ジャーナルが露呈させたのは、査読という営みが「人間の善意」に依存する脆弱な仕組みであるという事実であり、この意味で捕食ジャーナルは、査読制度に内在していた問題を早期に可視化した存在として、間接的にではあるが査読改革の議論を前進させた側面があるとも言える。

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捕食ジャーナルを冷静に評価するうえで参考になるのが、近年のオープンサイエンス運動を支える「プレプリントサーバー」(arXiv、bioRxivなど)との比較である。学術界において、プレプリントサーバーは研究のオープン化と迅速化を進める仕組みとして肯定的に評価される一方、捕食ジャーナルは否定的に扱われている。しかし、両者を学術流通の機能という観点から比較すると、構造的な共通点が多く見られ、その違いは機能そのものというより「透明性」と「収益モデル」の違いに集約されることがわかる。

両者は、学術流通における滞留を解消する仕組みとして、少なくとも三つの点で共通している。第一に、数ヶ月から数年を要する伝統的な事前査読プロセスを回避、あるいは最小限にとどめている点である。プレプリントサーバーは最低限のスクリーニングのみで即時に公開し、捕食ジャーナルも簡略化された査読によって短期間で採択・公表する。第二に、タイムスタンプによる優先権の確保と迅速な流通である。両者ともDOIを付与し公開日を記録することで、研究成果のアーカイブ化と優先権の主張を可能にしている。第三に、公表後の評価、いわゆる「ポスト・パブリケーション評価」への依存である。両システムにおいて、公開された文章の質の担保は事前の審査ではなく、公開後のコミュニティによる評価、引用、追試に委ねられている。

機能面でこれほど類似しているにもかかわらず、両者の社会的評価に大きな差が生じる理由は、透明性と収益構造の違いにある。プレプリントサーバーは、自らが提供するコンテンツが「未査読(Unreviewed manuscript)」であることを明記し、多くの場合、無料でコミュニティに提供される。読者はあらかじめ未検証の情報であることを理解したうえで読むため、誤解が生じにくい。一方、捕食ジャーナルは、実質的な査読を行っていない(と捉えらることが多い)にもかかわらず「査読済み国際誌」という体裁を示し、著者が支払う論文掲載料によって収益を得る。つまり、捕食ジャーナルの問題の本質は、査読を行わないこと自体にあるのではなく、「きちんとした査読を行っていると偽ること」と、「掲載件数に応じて収益が増える」という収益構造の歪みにあると考えられる。

以上の比較から導かれるのは、捕食ジャーナルとは、プレプリントサーバーが本来担うべき「迅速な公表」と「知識のオープン化」という機能を、既存学術界における「査読済み誌」というラベルへのこだわりと、商業的な収益追求とが結びつくことで生まれた、変則的な形態であるという見方である。研究者が査読済み国際誌への掲載実績を求められ続ける一方で、既存誌の査読容量が不足しているという矛盾があるからこそ、その間隙を埋める形で、有料で査読済み風の体裁とDOIを提供する仕組みとしての捕食ジャーナルが一定の需要を獲得したと考えられる。

この比較をさらに一歩進めるならば、捕食ジャーナルを完全な「悪」としてではなく、「表示に不備のあるプレプリント配信サービス」として制度的に再定義するという発想も検討に値する。すなわち、査読の有無や質を正確に開示させ、APCの水準を適正化させる規制を導入することができれば、捕食ジャーナルは現在のような否定的な存在ではなく、プレプリントサーバーの一形態として学術インフラの中に位置づけ直すことも理論上は可能である。この視点に立てば、問題の所在は捕食ジャーナルという業態そのものではなく、情報開示の不透明さという、比較的限定された技術的課題に帰着することになる。

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捕食ジャーナルが現代の学術エコシステムにおいて果たしている、あるいは果たしうる積極的な機能について、さらに掘り下げて検討する。これらは、既存システムが抱える構造的な不均衡を部分的に補う役割を持っていると考えられる。

大手商業出版社が主導するハイブリッドOA誌やメガジャーナルのAPCは近年上昇傾向にあり、1本あたり数千ドルから、場合によっては1万ドルを超える例もある。欧米の資金力のある大学に所属する研究者は機関協定などによってこの費用を補填できることが多いが、グローバルサウスの研究者や資金の限られた地方大学の研究者にとって、高額なAPCは自らの研究成果を発表する機会そのものを制約する要因となりうる。これに対し、比較的低い掲載料でプラットフォームを提供する捕食ジャーナルは、資金力を持たない研究者にとって発表の機会を確保する一つの手段として機能している面がある。これを単純に搾取的なビジネスとして切り捨てることは、資金力のある立場からの見方に偏っており、低コストで公表の場を提供するという役割を十分に評価していない可能性がある。

ピアレビュー制度には、既存のパラダイムに沿った研究を優遇し、既存の権威に対して異なる立場をとる革新的なアイデアを排除しやすいという保守的な傾向が指摘されている。また、既存誌はネガティブデータや再現実験の失敗報告を掲載しにくい傾向がある。既存の学術的な選別のプロセスから外れた挑戦的な仮説やネガティブデータが、捕食ジャーナルという比較的緩やかな審査を経て公表され、記録として残ることには、一定の学術的価値があるとも考えられる。特に、再現性の検証や、ある仮説が成立しなかったという情報自体が、後続の研究者にとって時間の節約につながる場合もある。

現代の学術界は、事前の厳格な選別に基づく評価から、まず研究をオープンに公開し、その後のコミュニティ全体による継続的な議論と引用によって価値を判断する「Publish-Then-Review」という考え方へと、部分的に移行しつつある。PubPeerのような出版後査読の仕組みや、AIを活用した文献分析ツールが発達した現在では、捕食ジャーナルに質の低い論文が掲載されたとしても、それらはコミュニティの検証プロセスの中で相対的に淘汰されやすくなっている。この観点からは、質の低い論文が無条件に学術的な混乱を招くという懸念は、技術的な対応によって、ある程度は緩和可能であると考えられる。

生態学的な比喩を用いるならば、学術出版のエコシステムを単一の頂点(一流誌)のみで評価するのではなく、多様な「ニッチ」が存在する生態系として捉え直すことができる。一流誌は高い選別性と権威を提供し、プレプリントサーバーは速報性を提供し、そして捕食ジャーナルに類する低コスト・高速の出版チャネルは、包摂性と迅速性を提供する。それぞれが異なる役割を担う多層的な構造として学術出版業界を理解するならば、捕食ジャーナルの存在を一方的に排除するのではなく、その機能をどのように制度的に統合していくかという議論の方が、生産的である可能性がある。

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最後に、この立場に対して学術界から寄せられる代表的な反論と、それに対する検討を以下に整理する。

反論1:査読の形骸化は科学的知見の信頼性を根本から損なう。
 これに対しては、一流誌における撤回論文や再現性の危機の存在が示すように、事前査読は品質保証の絶対的な仕組みとして機能しているわけではないという点を指摘できる。信頼性の担保は特定の雑誌による保証ではなく、公開されたデータや論理に対するコミュニティ全体の批判的な検証によって築かれるものであり、捕食ジャーナルの存在は読者自身による批判的な吟味を促す一つの契機になりうる。

反論2:捕食ジャーナルは弱い立場の研究者につけ込む搾取的なビジネスである。
 これに対しては、その背景には論文数という定量的な指標のみで研究者を評価するアカデミアの制度自体があり、捕食ジャーナルはその一つの帰結にすぎないという見方ができる。また、大手商業出版社が設定する高額なAPCや高い利益率のほうが、より大きな構造的負担を研究者に課しているという指摘も可能であり、捕食ジャーナルは相対的に低価格な選択肢として機能している面もある。

反論3:研究資源の浪費であり、学術データベースの質を低下させる。
 これに対しては、既存誌における再投稿の繰り返し(リジェクト・ループ)が生む時間的・労力的コストと比較すれば、捕食ジャーナルによる迅速な公表は、知識の流通速度という点では一定の効率性を持つと考えられる。また、検索アルゴリズムや被引用数分析の発達により、質の低い論文は結果的に参照されにくくなる傾向があり、データベースの質の低下という懸念は、技術的な対応によってある程度緩和されうる。

反論4:無償の査読という学術コミュニティの相互扶助にただ乗りしている。
 これに対しては、研究者に無償で論文執筆と査読の双方を担わせながら、高額な購読料や掲載料を徴収する既存の商業出版モデルのほうが、構造的にはより大きな負担を研究者に課しているという見方ができる。無償査読というモデル自体が世界的に持続可能性を問われている中で、既存の制度をそのまま維持することよりも、出版後評価を含めた新しい枠組みへの移行を検討することが、より現実的な対応である可能性がある。

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捕食ジャーナルという現象に対して、学術コミュニティがこれまで主に採用してきた倫理的な排斥という一面的なアプローチは、問題の根本的な解決には必ずしもつながっていない。警戒のためのガイドラインが整備される一方で、捕食ジャーナルの数と掲載論文数は増加を続けている。これは、これらのジャーナルが既存の出版・評価システムに内在する構造的な矛盾(高額なAPC、査読の長期化、選別基準の厳格さ、論文数偏重の評価)に対する、市場の一つの応答として生まれているためだと考えられる。

真に検討すべき課題は、捕食ジャーナルという現象そのものではなく、どの雑誌に論文が掲載されたかによって研究者の価値を判断する「コンテナ評価」という慣行のあり方である。論文の価値は、それが『Nature』に掲載されようと、プレプリントサーバーに置かれようと、あるいは捕食ジャーナルに公表されようと、本来はそこに記載されたデータ、再現性、論理の妥当性そのものによって判断されるべきものである。「研究評価に関するサンフランシスコ宣言(DORA)」や欧州の「研究評価改革に関する連帯(CoARA)」が指摘している本質も、まさにこの、掲載誌のブランドに依存した評価からの脱却にある。

捕食ジャーナルの台頭は、学術コミュニティに対して以下の4つの構造的な課題を提起した:(1)事前査読という制度には限界がある、(2)読者自身が一つ一つの論文を批判的に検討することが重要である、(3)公表された研究成果は、どのジャーナルに掲載されたかを指標として評価するのは危険である、(4)高額なAPCが学術分野への参入障壁を高くしているため、学術発信の機会をより均等にしていく必要がある。こうした点を踏まえると、捕食ジャーナルを単に排斥し、従来の出版体制をそのまま維持することは望ましくない。むしろ、その存在が示す市場の合理性と構造的な課題を踏まえたうえで、学術コミュニケーションの仕組みをよりオープンで公平、かつ効率的な形に見直していくべきである。この視点は、今後の学術出版のあり方を考えるうえで一つの重要なポイントではないだろうか。


著者:匿名希望


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